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米軍イラク撤退の中東波乱

2009年3月10日   田中 宇

 米国のオバマ大統領は2月28日、選挙公約どおり、18カ月(1年半)の期限を切ってイラクから米軍を撤兵する事業を開始すると発表した。現在約14万人いるイラク駐留米軍は、来年8月までに、新生イラク軍を訓練する5万人の要員を残して撤退する。残りの5万人も、2011年末までに撤退する予定となっている。 (With Pledges to Troops and Iraqis, Obama Details Pullout

 米軍内にあった「性急すぎる」という反対論を押し切って撤退を実現しようとするオバマを評価する人は多い。しかし現実的に見ると、どうも18カ月でイラクから米軍の主要部分を撤退させることは、物理的、兵站的に、試みる前からほとんど無理であるように見える。  米軍はイラクで、巨大な基地から小さな施設まで286カ所の拠点を持つ。8万個のコンテナ、4万台の軍用車両と航空機、それから4カ所の集積所に集められドラム缶などに入れて保管されている、使用済みのバッテリー用液(硫酸)、汚れた潤滑油類、溶剤類、鉛などの毒物の山がある。イラクには米正規軍のほかに、10万人の傭兵(危険地域警備会社)がおり、彼らの備品などもある。 (Iraq Withdrawal, Logistical Nightmare?

 米軍は、日韓など世界中に基地を持つが、それらの多くは恒常的な施設であり、基地ごと全撤退する経験が少ない。バグダッド北方には、2万4千人の米軍関係者が住むバラド空軍基地があるが、このような大規模の基地を撤退・閉鎖する経験を、米軍は持っていない。これまでの米軍の実績では、わずか200人が駐屯する基地を閉めるのにも2カ月以上かかる。

 2006年、イラク南部から英国軍が撤退した。急いで撤退したため、撤退期限までに基地からすべてを持ち出すことができず、空き家となった基地に物資が残されたが、それらは英軍撤退後すぐに地元の勢力によって略奪・破壊された。米英軍はイラク人から嫌われている。それまで表面的に兵士に敬意を表していた被占領市民が、占領軍が撤退した直後の基地を襲撃するのは当然だ。

 英軍は、米軍の10分の1以下だったし、クウェート国境のすぐ近くに駐屯していたので、何とかうまく撤退できた。米軍が駐屯する中心地バグダッドは、唯一の搬出口であるクウェートから500キロ以上も離れている。この補給路は、十分には機能していない。占領開始以来、米軍は巨額の資金をつぎ込みながら、作りかけの補給路しか持っていない。ゲリラに襲撃されなくても、砂嵐やトラック故障などで予定は簡単に遅れる。かなりうまく撤退しないと、ベトナム戦争末期のサイゴン陥落のような大惨事があり得る。

 バグダッドからヨルダンに至るルートもあるが、砂漠の中を行く距離が長く、米軍補給路としてはあまり使われていない。北イラクからトルコに出る道もあるが、クルド人とトルコとの対立があり、これもほとんど使われてこなかった。米軍は、3ルートの運搬テストをしているが、主に使われるのはクウェートへの道となる。 (US tests military exit routes out of Iraq

 クウェートには米軍の補給基地があるが、ここは非効率なことで知られている。物資の管理が悪く、5万個の軍用コンテナの紛失が発覚したこともある。米軍の撤退は米国覇権の弱体化の象徴であり、中東での反米イスラム主義の勃興を煽る。クウェートでイスラム主義が強くなり、この影響でクウェート政府(王室)が政権維持のために反米的な言動をせざるを得なくなると、米軍撤退は失敗色を強める。

 そして、最終的に米国にまで物資がたどり着いたとしても、最終目的地であるフロリダ州タンパの米軍基地は搬入路が貧弱で、今でさえ日常的に2千台のトラックが列をなして渋滞している。イラクからの撤退が開始されると、もっとひどい渋滞になる。 (Iraq Withdrawal, Logistical Nightmare?

▼はしごを外されるクルド人

 シーア派アラブ人・スンニ派アラブ人・クルド人(宗教的にはスンニ派中心)という、イラク人を構成する3派の勢力のうち、米軍と最も親和性が強かったのは、以前からフセイン政権と対立していたクルド人だった。クルド人は、フセインが倒されたらすぐイラクから独立できると思っていたが、米国は「イラクの統一維持」を重視し、クルド人に待ったをかけていた。クルド人は、米軍撤退とともにイラクから独立するのが、独立できる最後のチャンスと思っている。

 クルド独立をめぐる対立が最も激しいのは、大油田があるキルクークとモスルという北部の2大都市で、クルド人は「フセイン前政権に追い出された2市を取り戻す権利がある」と主張し、シーア派とスンニ派は「2市は歴史的に非クルドのイラクの町であり、クルド人が住んでもよいが、クルド自治区への併合は許されない」と主張し、対立している。 (Kurds Headed for Conflict With Baghdad?

 占領下のイラクではクルド軍(ペシュメガ)が、米軍から補佐役として重用され、2市を闊歩していたが、シーア派が主力のイラク政府(マリキ政権)は、米軍撤退とともにペシュメガを山中のクルド自治区に追い返そうとしている。クルド自治政府はこれを無視し、2市においてペシュメガの駐屯や拠点でのクルド国旗の掲揚を続け、イラク政府の抗議を無視してキルクーク油田の権利を外国政府に売っている。米軍撤退とともに、クルド人とアラブ人の対立が激化することは間違いない。 (Kurdistan Expansion Threatens US Pullout Plans

 この対立の中で、米国は、どっちの味方なのか。従来の構図でいうとクルドの味方に見えるが、実際の米政府の言動は、反クルド勢力を優位にしている。オバマ政権は、クルドの仇敵であるトルコに接近しているからだ。オバマは選挙公約の一つとして、イスラム世界に向かって協調を呼びかけることを掲げたが、これを実現するため、3月末ごろにトルコを訪問してイスラム世界向けの演説を発することにした。 (Obama 'to address Muslims in Ankara'

 オバマの行為は、トルコをイスラム世界の盟主とみなすもので、国際政治におけるトルコの地位を引き上げる(エジプト政府は落胆しているはず)。米政府内では、右派に邪魔されているものの、イランとの協調が模索されており、トルコはこれを受け、米国とイランの間を仲裁する構想を打ち出している。トルコもイランも、国内のクルド人の分離独立傾向に悩まされており、イラクのクルド人が独立するのは猛反対だ。オバマがトルコに行ってイスラム世界に協調を呼びかけるのは、クルド人にとって米国にはしごを外される悪夢の実現である。 (Turkey Would Consider Mediating Between Iran, US

 今後、クウェートを出口とする米軍のイラク撤退が渋滞するほど、北イラクからトルコ経由の撤退が模索され、米軍はトルコを頼るようになる。すでにトルコは米国に撤退路の利用を認めている。その分、クルド人の独立の希望は踏みにじられる傾向を強める。 (Turkey May Allow US Troops to Use Soil to Leave Iraq

 クルド人は第一次大戦後のオスマントルコ分割時に、一時的に独立国家の建設を英国中心の国際社会から認められたが、その後国際社会はアタチュルクによるトルコ共和国の建国を認め、クルドを捨てた。それ以来クルド人は独立への100年の怨念があるが、クルド人はその後も怨念を逆手に取られ、何度も詐欺師に騙される人のように、米英イスラエルによるイラクやイランへの攻撃の先兵として使われた。クルド人は、米国(CIA)にそそのかされてフセイン政権に楯突いて虐殺されたのに、米軍占領後も独立を許されなかった。

(フセイン時代、米国はクルド自治区の上空を飛行禁止区域に指定してイラク軍の侵入を阻止し、クルドの町にCIAの拠点を置いていた)

 今後、イラクではクルド人とアラブ人との対立が強まりそうだが、そこでもクルド人は損な役回りをさせられそうだ。アラブ人の間では、紀元前6世紀にユダヤ人が「バビロン捕囚」された時のユダヤ預言者の墓などを、イスラエルが「ユダヤ人のものだ」と言って、クルド人に金を渡して周辺の土地を買わせてユダヤ入植地にすることを画策し、イスラエルの拡大主義者がイラクを狙っているという、まことしやかな話が流れている。この話は眉唾な感じだが、イスラエルがアラブやイランとの謀略戦の一環でクルド人を利用しているのは確かで、クルド人は悪者にされがちだ。 (Israel hopes to colonize parts of Iraq as `Greater Israel'

▼ロシアの存在感

 米軍撤退後のイラクでは、イランの影響力が強くなる(顕在化する)と予測される。ヒズボラやハマスなどイラン系の勢力も強くなり、イスラエルに対する脅威は増大する。イスラエルは、砂漠の町ディモナの郊外にある原子炉を使って核兵器開発しており、一説には400発の核弾頭を持っている。これまでは米国がイスラエルの言いなりだったので、イスラエルは核兵器保有は国際社会における公然の秘密で、誰も文句を言わなかった。

 だが米国の覇権が揺らぎ、イスラエルもガザ戦争などで悪者にされる中、国連では「ディモナを核査察すべきだ」との主張がイスラム諸国などから出ている。その流れに合わせるかのように、米国防総省は昨年末に発表した報告書の中で、イスラエルの曖昧戦略につき合ってきた従来の姿勢を脱し、イスラエルを「核保有国」の一つとして名前を挙げるという、目立たないが画期的な転換をしている。 (U.S. Army document describes Israel as 'a nuclear power'

 ディモナ原発は、1962年ごろに稼働し、63年には米ケネディ大統領が、ディモナを査察させろとイスラエルに圧力をかけた。だがその数カ月後、ケネディは暗殺され、イスラエルに対する圧力も雲散霧消し、その後の米政界はイスラエルの言いなりになる傾向をしだいに強めた。ケネディを暗殺したのは米当局の一部である軍産複合体だろうと推測されるが、イスラエルは軍産複合体の強力な知恵袋として機能してきた。 (Obama to Force Israel to Allow Inspections of Dimona Nuclear Facility

 それから40年、ケネディの再来と言われるオバマは、世界的な反イスラエル世論の高まりに流され、イスラム諸国などが提起するディモナ原発に対する査察要求に反対せず黙認する姿勢を強めるかもしれない(暗殺が怖いので黙認以上のことはできない)。また財政余力がなくなった米政府は、イスラエルに対する経済支援を減少させるだろう。

 イスラエルは追い詰められ、自国の核兵器が凍結される前にイランを攻撃せよと、すでに右派が叫んでいる。イランは、ロシアから地対空ミサイルS−300を買うことになっており、イスラエルがイランを攻撃するとしたら、この迎撃ミサイルが配備される前だろうという予測もある。(3カ月以内にイスラエルがイランを攻撃する、といった当たらなかった予測が、これまでに米国の右派から何度も出たが) (Israeli warplanes await S-300 sale to Iran

 イスラエルがこだわっているのは「イランの核兵器開発」で、イランの核関連施設の中にはロシアからの輸入が多い。米国はロシアに対し「イランに核(原子力)開発を止めさせてくれ。そうしたら、ロシアが嫌がっている、ポーランドやチェコに配備予定の米軍の地対空迎撃ミサイルの配備をやめる」と交換条件を出した。 (Obama 'ready to drop shield plans for Russian help on Iran'

 だが、ロシアはこの提案を拒否した。パキスタンの混乱が激しくなってアフガニスタンへの補給路を失いつつある米国は、ロシア経由のアフガンへの補給路を確保せねばならず、ロシアは米国の弱みにつけ込んで強気になっている。そもそも、イランは核兵器を開発しておらず、IAEAが加盟国に「原子力開発」として認めている5%以内のウラン濃縮しかやっていない。ロシアのプーチン首相は、すでに07年のイラン訪問時に「イランが核兵器を開発していると言える根拠は何もない」と表明している。 (イラン問題で自滅するアメリカ

 ロシアは、米イスラエルが嫌がるのをしり目に、サンクトペテルブルグの石油市場(商品取引所)にイラン産の原油を上場させる方針を打ち出し、イランを誘っている。 (Russia invites Iran to sell Oil at Petersburg commodity exchange

 アフガン補給路の喪失で窮する米国は、ロシアに対して協調姿勢をとらざるを得ず、オバマ政権の高官たちは口々に「米露関係の新たな夜明け」などと協調戦略を表明しているが、実際には米国の対露戦略はロシアを苛立たせる強硬姿勢を変えず、NATOはさかんにロシア周辺で反露的な軍事演習を展開している。この米国の対露の失策は、米政界の軍産複合体による対露融和策阻止の結果なのか、そうでなければロシアを敵視しすぎて強化してしまうという「隠れ多極主義」の表れである。 (US Continues Military Encirclement Of Russia

 イスラエルでは2月の選挙の結果、極右の政治家リーバーマンが連立政権組閣のカギを握り、首相になりそうなネタニヤフから譲歩を引き出し、15席しかない内閣のうち3席もリーバーマンの党(イスラエルわが祖国)に与えられ、彼自身は外相ポストを与えられそうだ。 (World takes dim view of Lieberman in FM post

 リーバーマンが外相になると、パレスチナ人やシリアとの和平は進まず、米欧とイスラエルの関係も悪化するだろう。イスラエルは破滅の道にあり、中東大戦争の懸念は消えず、自滅していく米国と反比例してロシアや中国が潜在的な優位を増している。

 もうひとこと付け加えると、イスラエルの破滅の道は民主主義の結果だ。2月の選挙で与党だった中道的なカディマが不利になり、右派のネタニヤフと極右のリーバーマンが政権をとるのは、イスラエル有権者の投票行動の結果である。イランで過激なアハマディネジャドが大統領になったのも、中東有数の民主主義国であるイランでの選挙の結果だ。

 この事態からわかることは「民主主義国どうしは戦争をしない。だからイラクを戦争で民主化するんだ」という、数年前に米国民の大多数が賛同したブッシュ・ドクトリンは、実は噴飯もののインチキだということだ。インチキ理論がマスコミを通じて真理として広められ、人々はそれを軽信して賞賛するのが、実は民主主義の最大の特性かもしれない。「民主主義万歳」である。



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