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世界史解読(1)モンゴル帝国とイスラム

2009年8月19日   田中 宇

 歴史上、イスラム世界にとって非常に重要な戦争が、これまでに2回、イラクのバグダッドで起きている。一つは1252年、モンゴル帝国がバグダッドに侵攻して町を廃墟と化し、610年にムハンマド(マホメット)がイスラム教を興して以来、ウマイヤ朝、アッバース朝と続いてきたカリフ(イスラム国家の最高指導者)の系統は、殺されて途絶えた。もう一つは2003年の米軍によるイラク侵攻である。

 750年を隔てて起きた、この2つの「バグダッドの戦い」は、最初の戦いがイスラム世界の衰退を加速させるものとして、二つ目の戦いはイスラム世界に代わって世界の中心となった欧米(米国)の覇権の「終わりの始まり」として、いずれも世界史の中の文明の興亡を見る上で転換点と見なすことができる(イラク戦争を含む、米国の単独覇権主義とその失敗の流れは、まさに今起きていることであり、最終的に世界の覇権体制がどうなるか未確定だが)。今回の記事では、この2つの「バグダッドの戦い」の間に、世界がどう動いてきたかを、私なりに読み解いてみたい。

 モンゴル軍が1252年にバグダッドを破壊し、10万人から100万人といわれる市民を殺害し、その後何十年にもわたって町を廃墟の状態に置いた時には、ムハンマドから600年の歴史を持つイスラム世界は、すでに衰退期に入っていた。イスラム帝国は、最初の300年ほどは、今のパキスタンからスペインに至る広範な地域を統治して繁栄していたが、西暦1000年から1100年ごろにかけて分裂した。エジプト周辺にはシーア派のファティマ朝や、職業軍人(奴隷)によるマムルーク朝などができ、その間には欧州から十字軍に攻められた。今のトルコからイラン、中央アジアにかけてはトルコ人のセルジュクトルコ朝ができて、正統的なカリフ(アッバース朝)はトルコ人将軍たちの影響下で、バグダッド周辺のみ統治することを許される状態だった。

 モンゴル帝国は、カリフが抵抗する姿勢を見せたため、バグダッド市民を皆殺しにしたが、バグダッドの破壊を知って降伏を申し出たダマスカスの町には侵攻せず許した。モンゴルは、セルジュクトルコも滅ぼしたが、エジプトのマムルークとは今のイスラエル北部で戦って破れ、中東でのモンゴル帝国の領土は、今のイラン、イラクまでとなった。

 モンゴル帝国はイスラム世界の衰退を加速させたものの、その後150年続いたモンゴル統治下で、イスラム教徒は優遇され、イスラム教の布教はむしろ拡大した。モンゴル人は、中国より先に中央アジアを侵略、支配したが、そこでの統治に地元のペルシャ系、トルコ系のイスラム教徒の官吏を登用した。イスラム教徒は使えると知ったモンゴル人は、その後征服した中国において、それまでの官吏である漢人(儒家)を使わず、中央アジアからイスラム教徒(胡人、色目人)を中国に移住させ、元朝の高級官僚として登用した。元朝での身分制度は、モンゴル人、色目人、漢人、南人(中国内で最後まで抵抗した南宋の住民。蛮子)という4段階にわけられ、移住させた中央アジア人を、中国人より高い地位に置いて優遇した。

 モンゴル人は、被支配者となった中国人を信用せず、中央アジアからイスラム教徒の移民官吏を連れてきて使った。こうした体制は、100年後に各地で反乱が起こって元が滅び、1368年に朱元璋(洪武帝)が明朝を興すとともに、公式には失われた。しかし、すでに元朝の100年間で、色目人や回族といったイスラム教徒は、中国において軍人や商人、官吏として高い能力を持つ存在になっており、明を興した朱元璋の家臣たちの中にも、藍玉ら6人のイスラム教徒がいた。元のモンゴル人勢力に圧勝して北に追い払い、二度と中国に攻めてこれないように弱体化させたのは、イスラム教徒の将軍である藍玉に率いられた明軍だった。(藍玉はその後、権力志向を疎んぜられ、洪武帝によって粛清されたが) (Islam during the Ming Dynasty From Wikipedia

▼パックス・モンゴリカの自由貿易

 イスラム教徒が中国が活動するようになったのは、元の時代が初めてではない。もっと古く、イスラム教が興されて40年後の651年には、預言者ムハンマドの叔父が率いる使節団が、海路を経由して、当時の唐の都だった長安にやってきて、中国におけるイスラム教の布教を許され、長安に中国最初のモスクが建てられている。

 ムハンマドのイスラム帝国は、中国では「大食」と呼ばれたが、これはペルシャ語で「アラブ人」を意味するTaziが起源である。これは、アラブ人より先にペルシャ人が中国に来ていたことを意味する。唐の時代には、中国の影響圏はササン朝ペルシャと隣接していたから、シルクロードの陸路を経由して、ペルシャ商人が中国に来ていた。

 一方、イスラム教の最初の使節団がアラビア半島から海路で中国に来たということは、この時期にすでにアラビアからインド南部、マラッカ海峡を経由して中国南部に至る貿易航路が、比較的危険の少ない通行路としてひらけていたことを意味する。その後、宋の時代には、中国の貿易商人の大半はイスラム教徒だった。この時代、陸路のシルクロードはほとんど機能しておらず、貿易は海路経由だったと考えられる。

 モンゴル帝国は、バグダッド市民の皆殺しに象徴される残虐と圧政のイメージがあるが、モンゴル帝国が繁栄していた約100年間は、世界史上まれにみる、中国から中東までのユーラシアの主要部分がモンゴルの統治下で安定した「パックス・モンゴリカ」(モンゴル覇権体制)の時代であり、陸路と海路の両方で、安定的な国際貿易路が存在する「グローバリゼーション」の時代だった。この貿易路を使って最も儲けた人々は、ペルシャ人やアラブ人などのイスラム教徒の商人たちだった。

 当時、欧州ではイタリアの貿易都市ベネチアが繁栄していたが、彼らの繁栄はモンゴル覇権体制のおこぼれにあずかるものだった。また、この自由往来体制下で、マルコ・ポーロ(ベネチア商人)やイブン・バトゥータ(モロッコ人)といった、末代まで有名な旅行家のユーラシア大旅行が可能になった。1350年代には、イタリアなど欧州でペスト(黒死病)が大流行し、欧州の人口が半減したが、これも当時の自由な貿易体制下で罹患者が遠くまで移動し、欧州に病気が持ち込まれたと考えられている。

▼東南アジアのイスラム化とスーフィ

 モンゴル帝国が衰退した後、中国(明)から中東方面への陸路(シルクロード)の安全性は失われたが、マラッカ海峡経由の海路は残っていた。中国のイスラム商人たちは、明朝政府に働きかけ、中国とマラッカ、インド、中東方面をつなぐ航海路の安定を、中国の影響下で実現しようとした。それが、永楽帝時代の明朝政府が7回にわたって挙行し、中東からアフリカ東海岸まで行った「鄭和の遠征」(1405−1433)であったと私は考えている。 (人類初の世界一周は中国人?

 この遠征を率いた鄭和はイスラム教徒で、明朝の宦官だった。鄭和(幼少時の名前は馬三宝)は雲南省の出身で、祖先を6代さかのぼると、ウズベクのブハラからモンゴルの時代に中国に移住し、元朝によって雲南省の知事に任命された色目人の家系だった。元が衰退して明が興ったとき、万里の長城以南の中国で最後まで元の勢力が残って明朝に対抗していたのが雲南だった。雲南が明軍に攻め落とされたとき、鄭和は明軍に捕らえられたが、色目人の官吏の家系であることから、明朝政府は鄭和を去勢して宦官として使うことにした。元朝に使えていた色目人の子孫は、明朝では宦官となって政府に仕え続ける流れがあり、鄭和もその一群に入れられた。その後、鄭和は永楽帝に能力をかわれて登用され、遠征の司令官に任命された。 (Zheng He From Wikipedia

 鄭和の遠征は、東南アジアのイスラム化にも寄与している。東南アジアのスマトラ島やマレー半島といったマラッカ海峡の貿易航路に面した地域には、古くからシュリーヴィジャヤ王国やマジャパヒト王国など、マレー・インドネシア系の貿易立国がいくつか存在し、イスラム商人と貿易していたが、その多くは仏教やヒンドゥ教を国教とし、イスラム教国ではなかった。マラッカ海峡両岸の国々の為政者のイスラム教への改宗は、1170年代にマレー半島のクダ王国、1270年代にスマトラ島北部(アチェ州)のサムドラ(パサイ)王国など、一部のみだった。

 鄭和の遠征艦隊がマラッカ海峡を何度も通航し、海峡に面したマラッカに遠征の中継地点を作ることにした際、マラッカをおさめていたのは、マジャパヒト王国に滅ぼされかけていたシュリーヴィジャヤ王家の末裔で、彼らは鄭和に協力することで明の庇護を受ける(冊封下に入る)とともに、1410年代にイスラム教に改宗し、マラッカのスルタンとなった(マラッカは1511年にポルトガルに占領されるまでスルタン制だった)。この後、マジャパヒト王国も衰退する中でイスラムに改宗し、王国の中心地だったジャワ島にもイスラム教が広がった。 (Spread Of Islam To Southeast Asia

 東南アジアのイスラム化には、もう一つ重要な要素がある。それは「スーフィ教団」の存在である。スーフィ(スーフィ主義)は、イスラム教の中で、神秘的、内面的、神の本質的な部分を深く追求していく宗派(流儀、思考体系)であり、ペルシャなどの中東にイスラム教の勃興以前から存在していた古代ギリシャ哲学の流れの上にイスラム教がかぶさったものが源流だと私は分析している。これはムハンマド率いるイスラム帝国軍の武力によって、中東・西アジアのすべての勢力がイスラムの傘下に入らねばならない宿命となった時に、当時の哲学者たちが、自分たちの思考の生き残りのために採った策略である。

 この、イスラム以外の思考法や哲学体系、儀式などを、イスラムの教えと上手に混合して残す(悪くいえば詭弁的、あるいは密教的な)スーフィの手法は、やがてイスラム勢力がインドに攻め込み、ヒンドゥ教のインド人をイスラムに改宗しようとするときに役立った。スーフィ教団の人々は、ヒンドゥ教の社会で恵まれていない貧しい人々、下層カーストの居住地域でイスラム教を布教し、その際にヒンドゥ教の哲学や儀式を残しつつ、人々がイスラムを信仰できるように、インドでのイスラム教のあり方を柔軟に設定した。インドのイスラム人口は増加した。(デリーにイスラム国家ができる前から、インドのイスラム化は開始されていた)

 同じやり方は、12−15世紀に、イスラム教団が、ヒンドゥ教の影響が強かった東南アジアに布教をしていく際にも使われた。王室が改宗しても、それだけでは一般の人々の改宗は進まない。しかし、クルアーンを暗誦し、モスクで礼拝し、豚肉は食べず、一生に一度はメッカに巡礼し、女性はヘジャブをする。これぐらいやれば、立派なイスラム教徒である。残りの部分は、イスラム以前の思考や生活体系が残っていても良い。いったんイスラムに改宗すれば、しだいに人々は以前の信仰を離れ、イスラム的になっていく。このようなスーフィ的な寛容さを使った布教は、インドや東南アジアだけでなく、中国やアフリカでも行われたようだ。現在の世界のイスラム教徒の半分以上は、スーフィ的な布教の結果として改宗した人々の子孫ではないかとも思うのだが、スーフィ教団自身が秘密主義のとばりに包まれており、実態はわからない。

▼発展しなかった中国の制海権

 鄭和の遠征は7回も行われたが、結局、明の中国は海のシルクロードの守護者にはならなかった。鄭和が死ぬころ、中国の明朝中枢では、元朝以前の中国歴代王朝の官吏集団だった儒家が力を取り戻し、イスラム系の色目人宦官勢力を追い落としにかかっていた。伝統的に貿易で儲ける色目人は明を国際的な帝国にしておきたかったが、これを潰したい儒家は、国際化の維持に反対し、最終的に儒家が勝ち、明朝は内向きとなった。

 中国では、反乱軍が首都を占領すれば前の王朝は終わり、反乱軍の指導者が新たな王朝の皇帝になるという歴史が繰り返されてきた。前の王朝は、辺境に逃げて再起をうかがうが、その辺境の一つは「海」だった。反乱軍(新政府軍)はだいたい陸軍のみであり、海軍を持たない。国際国家だった元が、明に取って代わられたとき、明の新政府がまずやったことの一つは、元が海上勢力と結託することを防ぐため、大型船の建造や航海を許可制にする「海禁」の政策だった(1371年)。

 この時期には、中国の混乱に乗じて日本人などの海賊(倭寇)がしばしば跋扈しており、海賊に沿岸の拠点を作らせないよう、沿岸諸都市の発展は止められ、船舶の自由往来も禁じられ、海賊が跋扈する地域では、沿岸部の人々を内陸に強制移住させた。その後、30年たって明の支配が安定してきたときに、ようやく海禁が解かれ、鄭和の遠征が行われた。同時期には、日本の足利義満との勘合貿易も開始されている。

 これで明は海上覇権国なると思いきや、そうはならなかった。強い海軍を建造して海賊から制海権を奪う方には進まず、16世紀後半には再び海賊が跋扈すると、再び海禁策が採られた。17世紀になると、明が衰退して満州から清が攻め込み、王朝が交代したが、明の朝廷は海賊の親分である台湾を拠点とする鄭成功に頼って清に対抗しようとしたため、清は海禁策を採用し、広東省や福建省などでは、沿岸部の住民を海岸から20キロほど強制移住させる策をとった。 (Hai jin From Wikipedia

 このような海禁策は、中国沿岸諸都市の開発や、貿易による経済発展、造船技術の振興を抑制し、中国は強い海軍力を持てないままとなり、海賊すら退治できない状況が続いた。清朝は欧米から軍艦を購入して海軍を作ったが、日清戦争で日本海軍に惨敗した。中国は結局のところ、倭寇に勝てないのだった。また、現在の中国には、上海、青島、廈門、香港といった港湾都市があるが、これらはすべて、アヘン戦争後、欧州列強による開発によって発展したものだ。

 中華人民共和国も、毛沢東時代は陸軍重視の「人海戦術」で、海軍は貧弱だった。米海軍の襲来に備え、工業生産拠点を四川省や貴州省などの山の中に避難させるという「海禁」の延長策がとられていた。このような歴史があるために、中国はごく最近になって、米国から覇権国になれとせっつかれる中で、大急ぎで海軍力を強化している。今度こそ、中国は鄭和から600年を経て、ようやく海上覇権国になるのだろうか。

 モンゴル帝国によるユーラシア支配をきっかけにした国際政治経済の変動は、欧州にも大きな影響を与えた。それは、欧州が世界の中心として台頭し、近現代世界を形成することにつながるのだが、そのことは改めて書く。

「世界史解読(2)欧州の勃興 」に続く】



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