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世界史解読(2)欧州の勃興

2009年8月25日   田中 宇

この記事は「世界史解読(1)モンゴル帝国とイスラム」の続きです。

 前回の記事の後半で、明から清にかけての中国が、海賊対策のために沿岸海域での自由な航海を禁じ、人々が海岸地域が住むことを抑制する「海禁」の政策を採ったことを書いたが、この件で一つ書き忘れたことがある。それは、海禁策の対象となった広東省や福建省では「洪門」「三合会」「天地会」などと呼ばれる地下組織(黒社会、秘密結社、マフィア)が強く、しかもこの華南黒社会は清代以降、東南アジアや米国などにもネットワークを持っていることとの関係である。私の解読は、中国の明清の王朝が海禁策を採ったため、それまで海外貿易で稼いでいた華南沿海部の人々は、海外との貿易や海外渡航をこっそりやらねばならなくなり、航海や貿易、渡航を手がけるネットワークは、地下化して秘密結社にならざるを得なかったという推測である。

 洪門系の華南の秘密結社の多くは、鄭成功の一族が組織の創設者であると主張している。鄭成功は、明末から清初にかけて、台湾と華南を拠点に、明朝の復活を掲げて清軍と戦った海上武装勢力(海賊)である。清朝が海禁策を採った大きな理由は、鄭成功一派を滅ぼすためだったが、海禁策は同時に、華南の貿易業者に打撃を与えた。貿易業者のネットワークは地下化して洪門や三合会として生きながらえ、海禁策をとる清朝を嫌う意味で、鄭成功一派の流れを受け継ぐ勢力であると自称したのだろう。

 海禁策のもとでは、貿易業者や自由貿易論者、海外渡航の経験者と計画者、国際情勢おたくなどは全員「海賊」であり、見つかれば厳罰である。貿易や渡航を行う人は、事実上、洪門系の地下ネットワークに入ることが必須となったと考えられる。華僑イコール洪門とも言える。

 この地下ネットワークは、海外から中国に影響を与えようとする勢力からの接触を受けるようになった。辛亥革命を起こして清朝を倒し、中華民国を建国した孫文らの革命勢力の多くは三合会のメンバーで、ハワイなどの華人ネットワークを通じて、米国からも支援されていた。また、国際共産主義運動(第一インターナショナル)も、中国人に共産党を結成させる前の段階で、天地会など洪門系地下組織に接触していた。近現代における中国の国際化は、洪門系の黒社会によって始められたと言える。

 中国の洪門系組織と同様、国際共産主義勢力も秘密結社である。もう一ついうと、ユダヤ人ネットワークやフリーメーソンなど欧州資本家系の国際組織も秘密結社だ。私の分析では、ニューヨークの資本家は裏でロシア革命を支援しており、ソ連の初代外相で国際共産主義運動を起こしたトロツキーはNY資本家の代理人だったと疑われるぐらいだから、資本家系の秘密結社と、共産主義系の秘密結社は必ずしも敵対していない。それらのネットワークに中国の秘密結社も引っ張り込まれて結節し、秘密結社どうしの関係性(協調と暗闘)が、国際政治を動かしてきたともいえる。

▼東ローマ帝国崩壊がルネサンスに結びついた

 前回の記事では、モンゴル帝国の台頭と衰退が、その後のアジアや中国という東方世界にどのような影響を与えたかという流れを書いた。今回は、西方世界(欧州方面)に目を向ける。欧州は、19世紀以降は世界最強の勢力となったが、それ以前には、むしろ中東やユーラシアの東方勢力よりも弱いか、せいぜいいって互角だった。欧州が世界最強になったのは、18世紀に産業革命と国民国家革命(フランス革命など)によって強い国家システムを得た後である。

 13世紀にモンゴルが中東まで侵攻してくる前、欧州勢力は11世紀から十字軍として中東に攻め込んだ。それ以前、7世紀に中東で興ったイスラム教(イスラム帝国)が地中海を席巻したが、10世紀には分裂と衰退が始まり、それを受けた欧州側からの巻き返しが「聖都エルサレム奪還」「東ローマ帝国(ビザンツ)をイスラム教徒の侵略から守れ」といった建前で行われた十字軍の侵略となった。

イスラム世界では当時、セルジュク・トルコ帝国が東ローマ帝国の領土だったアナトリア半島に侵攻してきて、東ローマ帝国は存在が危うくなっていた。十字軍の首謀者の一つは、イタリア北部の貿易都市ベネチアで、トルコ人などイスラム勢力から地中海地域の貿易利権を奪還することが目的だった。この目的はある程度達成され、ベネチアは繁栄した。

 13世紀にモンゴル帝国が東からイスラム世界に侵攻して中東の北東の半分を占領してきたのは、数字にわたる十字軍の末期のことだ。1243年には、モンゴルがセルジュク・トルコを打ち負かして潰してくれた。その後のモンゴル帝国の支配によって、中東から中国までの内陸地域が安定し、その恩恵を受けた貿易によってベネチアの繁栄が続いたことは、前回書いたとおりだ。

 14−15世紀にモンゴル帝国が分裂、弱体化すると、アナトリア半島でトルコ人が再び決起し、オスマン・トルコを建国した。トルコ帝国はモンゴルの後継であるチムール帝国やエジプトのマムルーク朝などを撃破して領土を拡大し、エルサレムからエジプト、北アフリカまでを占領した。1453年には東ローマ帝国(ビザンツ)の首都だったコンスタンチノープルは陥落してイスタンブールと改称され、東ローマ帝国は滅亡し、その後トルコはバルカン半島からハンガリーまで侵攻してきた。

 地中海地域の東半分を占領したオスマントルコ帝国は、欧州人が持っていたアジア貿易のルートを奪った(それまで欧州人は、エジプトから紅海を通ってインドに至る経路などで、アジアから香辛料や織物などを輸入していた)。

 ベネチアは衰退に向かったが、オスマントルコの台頭は、イタリア半島に副産物をもたらした。東ローマ帝国は、古代ギリシャ哲学やキリスト教の古典を研究する学者群を養っていたが、彼らは東ローマ帝国の滅亡を受けてイタリアに亡命してきた。古典研究に起因する発想法は、イタリアの上流階級に、人間中心の考え方をするという価値観の転換をもたらし、これがルネッサンスを引き起こす一因となり、その後16世紀のキリスト教の宗教改革にもつながって、個人の信仰を教会の支配から解放した。

 この転換は、欧州人の頭の中に、キリスト教の価値観以外の考え方が入れる余地を生み出した。そこに新たに入ったものの一つは、18世紀末のフランス革命を契機とした、民主主義の考え方(幻想)に基づく「ナショナリズム」である。ナショナリズムの定着によって、人々は納税や兵役のかたちで無償で国家に献身するようになり、欧州各国は19世紀に国民国家として急速に強くなった。欧州(その後の欧米)は世界最強となり、イスラム世界や中国など、その他の地域の国々を支配するようになった。

 欧州キリスト教地域以外では、この手の転換は起こらなかった。中東のイスラム世界では第2次大戦後、英仏などに分割された各国が個別にナショナリズムを鼓舞し、政教分離を進めて欧米型の国民国家になる方向が模索されたが、あまり成功せず、この方向を最も強く押し進めたトルコ共和国も、最近はイスラム主義の方に転換している。アラブ諸国地域では、むしろ英仏に分割された状態を乗り越えてアラブ再統一を目指す「汎アラブ・ナショナリズム」も起き、イスラム主義と社会主義の思想が対立し、中東は分裂した状態が続いた。

 しかし近年、中東イスラム世界の統一への動きは、意外なところから強化されている。911後のテロ戦争をブッシュ政権の米国が稚拙に過激にやって失敗し、中東全域で反米イスラム主義の勃興を誘発したことである。2003年の米軍によるバグダッド陥落(イラク侵攻)が、1258年のモンゴル軍によるバグダッド陥落と同様、文明の均衡状態を変えたと考えられるのは、この点である。

 欧州の人々が教会支配から解放されて個人主義の余地が拡大した副産物のもう一つは「金儲け」が「個人の努力」として容認ないし奨励されるようになった結果、資本主義が欧州に根づいたことだ。工夫(技術革新)や発明を行って、仕事の効率を上げて儲けを増やす動きが加速し、産業革命が英国から他の欧州諸国に拡大し、高度経済成長が起こり、経済面でも欧州は世界最強となった。

▼イスラム世界から航海術を学んだポルトガル

 話をオスマントルコの台頭まで戻す。トルコの台頭によって、欧州人はインドなどアジア方面への貿易ルートを失ったが、この問題を解決しようとする動きが欧州内で起きた。それが、ポルトガルやスペインによる「地理上の発見」「大航海時代」である。

 ポルトガルは人口や領土がスペインよりずっと小さいが、大西洋に面しているため遠洋航海がさかんで、大航海時代を生み出した流れはポルトガルの方が中心だ。スペイン(カスチラ)はむしろ後発で、ポルトガルの成功を見て途中から参加し、ポルトガルよりはるかに強い陸軍力を利用して、中南米などで内陸部への侵略を行って世界から富を強奪し、一時は欧州最大の帝国となった。当時100万人程度と人口が少ないポルトガルは、世界各地に散らばった港湾の要塞を守るのが精一杯で、内陸への侵略はできなかった。

 ポルトガルとスペインがあるイベリア半島は、8世紀にイスラム帝国に侵略され、15世紀までイスラム教徒の国が半島南部にあった。中世には、イスラム勢力の方が航海術に長けていた。古代のフェニキア人などから綿々と受け継がれてきた地中海東部の航海技術を継承していたからである。ポルトガルは、友好関係にあるイスラム勢力から航海術を学んだ。

 ポルトガルは、イベリア半島南部と北アフリカのイスラム勢力を介してアフリカとの貿易を行っていたが、14世紀以降、ポルトガルは、高い仲買料を取るイスラム勢力を介さずに対アフリカ貿易を行うことを模索し、1341年には大西洋を南下してアフリカ沖のカナリア諸島を領有した。アフリカから欧州への輸入品は、主に黒人奴隷と金地金で、ポルトガルはこれらの貿易で富を蓄えた。

 15世紀にオスマントルコが勃興し、欧州から中東経由のインドへの貿易路が絶たれると、欧州では中東を経由せずにアジアに向かうルート探索の必要が高まり、ポルトガルはアフリカ南部にまで航海範囲を拡大するとともに、喜望峰を回ってインド洋に至る海路を開拓し始めた。アフリカ一周航路の存在は、すでに古代にフェニキア人によって知られ、イスラム世界はその知識を継承していたから、ポルトガルも航路の存在自体は知っていた。

 ポルトガルでは、15世紀前半にエンリケ王子(英国貴族との混血)が航海学校を創設して航海技術を磨き、アフリカ西海岸や大西洋上の島々を次々と領有して航海拠点としていき、1498年には喜望峰を回ってインドに至る航海をヴァスコダ・ガマが成功させた。ポルトガルは、アフリカ沿岸だけでなく、大西洋を横断して米州大陸に至る航路も開拓し、今のブラジル沿岸を領有するとともに、北米探険の拠点となる北大西洋のアゾレス諸島を1431年に領有した。

▼コロンブスはポルトガルのスパイだった?

 後発のスペイン(イスパニア)は、1492年のコロンブスによるキューバなど西インド諸島への航海を皮切りに「地理上の発見」競争に参画したが、コロンブスは当初、ポルトガルの傘下で航海に乗り出そうとしていたのをスペインに鞍替えした経緯があり「コロンブスは、ポルトガルが、スペインの動きを妨害するために放ったスパイだったのではないか」という説がある。 (Age of Discovery - History of Portugal (1415-1542) From Wikipedia

 当時のポルトガルやスペインの航海拡大の目標は、インドなどのアジアに到達することだった。コロンブスは、南北米州大陸の存在を知らなかったため、南米カリブ海の島々に航海して、スペインに帰国後「インドや日本の近くの島まで行った」と発表し、カリブ海の島々を「インド」(今の西インド諸島)と名づけてしまい、世界にインドが2つある現状を生んだとされている。しかし、当時すでにポルトガルは大西洋地域での探険航海を何度も行っており、北米大陸の存在を知っていた可能性がある。

 ポルトガル政府は、自国の探険航海の成果がスペインなど外国に知れると、他の諸国の探険航海への参入を誘発し、小国であるポルトガルは追い抜かれかねないので、自国の航海の成果を正しく発表せず、ポルトガルが発表している大西洋やアフリカ沖の島々の領有日は、実際にポルトガルが領有を開始した日より遅かった疑いが濃い。発表されている航海日誌の中には、ライバル国を騙すための偽物が多いとも指摘されている。ポルトガルは、コロンブスの航海より前に米州大陸にも到達していた可能性がある。米州大陸が存在するのではないかという指摘は、古代からあった。

 コロンブスは、ポルトガル政府に航海への支援を求めた時点で、自分が向かおうとしている方向にはインドではなく米州大陸があることを感知し得た。それなのにコロンブスは、自分が到達した島がインド近海のアジアであると信じて疑わず、スペインに帰国した後、インドに到達したと大々的に発表して全欧的な話題となった。航海の成果を秘密にして他国による成果の横取りを防いだポルトガル流の航海戦略とは正反対である。そのようなことから、ポルトガルは、探険航海に乗り出したばかりのスペインが、カリブ海をインド近海と間違える失敗に陥るよう、コロンブスを送り込んだのではないかとの推測が出ている。

 とはいえ、コロンブスの航海によってスペインは、アステカやインカといった中南米の王国を侵略して金鉱山など巨万の富を強奪し、欧州最強の帝国になったのだから、もしコロンブスの航海がスペインを勘違いさせるためのポルトガルによる策略だったとしても、スペインは騙されて損をしたわけではない。逆に、先に探険航海に乗り出したポルトガルの方が、人口や国力の割に広大な領域を支配する無理な状態を長続きできず、スペインより先に力を弱めた。

 ポルトガルとスペインによる大航海と、世界を二分して植民地にしていく戦略は、欧州が、中東イスラム世界や中国をしのいで世界最強になっていく道筋をつけた。この流れと、先に述べたルネサンスから宗教改革を経て個人主義、資本主義、ナショナリズムの強化に至る変化が重なって、スペインの後、オランダや英国が覇権国となり、貿易の効率化や金融の発展、産業革命などが起こり、欧州(のちの欧米)は経済的、軍事的に、世界の他の地域を圧倒する強さを持つようになった。

 ここ数年で起きている米国の覇権崩壊と多極化の始まりによって、この欧米が他を圧倒していた状態が崩れ、世界の体制が転換しつつある。この転換の歴史的な転換の意味を考えるには、今起きていることだけでなく、欧州の覇権がどのように勃興したかという500年史もしくは1000年史を考えねばならない。そのための試みの一つとして、今回の記事や、昨年何度か配信した「覇権の起源」など、自分なりの歴史解読をしている。今後も、現状分析と並行して、歴史分析も続けていくつもりだ。

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