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逆効果になる南シナ海裁定

2016年7月17日   田中 宇

 7月12日、海洋法条約に基づく国連の仲裁機関が、南シナ海の領有権をめぐってフィリピンが中国を相手に提起していた調停で、フィリピンの全面勝訴、中国の全面敗訴に近い裁定を発表した。裁定は、欧米の国際法の「専門家」たちが驚くほど、事前の予測を大きく超えて中国を批判する内容だった。裁定は、南シナ海での中国による領土主張や環礁埋め立て、フィリピン漁船追い出しなどの行為が、海洋法条約の14の条項と「海上衝突防止国際規約に関する条約」の6つの条項などに違反していると断定した。 (Tribunal Rules: China's South Sea Claims Don't Hold Water) (The bolt from The Hague

 フィリピンは2013年に前アキノ政権がこの件を海洋法調停機関に提起したが、当初から中国は、提起は不当なものなので調停に参加しないと宣言し、最後まで参加しなかった。中国の主張は「中国とフィリピンは1995年以来、南シナ海紛争を双方の話し合いで解決すると合意しており、海洋法も当事者間の交渉を優先する決まりなのに、その枠組みを無視したフィリピンの提起は無効だ。海洋法の調停は当事者全員が同意しないと始まらない規則で、中国が反対したまま調停が始まるのも無効だ。海洋法の調停は、領土紛争に踏み込めないと規定されているが、本件は領土紛争であり、海洋法機関は自らの規定に違反している」といったものだ。調停は、中国の主張を無視して進められた。 (Limitation of UNCLOS Dispute Settlement System) (Arbitration on the South China Sea dispute is fatally flawed

▼南シナ海裁定は海洋法機関の規範外

 訴訟事は一般に、参加を拒否する当事者に不利な結論が出されることが多いが、今回の裁定も、中国を異様に断罪する結果が出た。調停そのものが規定違反で無効だと当初から言い続けてきた中国は、今回出た裁定も無効だと表明し、遵守せず無視すると宣言している。一般の国内裁判には判決を強制執行する機能があるが、海洋法の調停には、裁定に従わない国に対する強制執行の機能がない。国連安保理で、調停に従わない中国を経済・軍事面で制裁する決議を行うのが唯一の強制執行への道だが、常任理事国である中国が拒否権を発動するので実現不能だ。 (The Truth Behind the Philippines' Case on the South China Sea

 執行機能はないものの、裁定を無視する中国を「国際法違反の極悪な国」と非難して国際信用を失墜させる効果はある。中国を敵視する米国などが、仲裁機関の判事の判断に影響を与え、異様に中国が不利となる裁定を出させたに違いないと、中国側が表明している。裁定が出た後、米政府は「中国は裁定に従うべきだ」と表明している。日本外務省はマスコミに対し、中国が国際法違反の極悪な国であると喧伝するよう誘導(加圧)している。

 海洋法の仲裁機関は、当事国どうしが話し合いで紛争を解決する際の助力となる仲裁をするために設置され、強制執行の機能がない。当事者の話し合いを前提とせず、裁判所の判決が大きな拘束力を持つ、国内裁判所とかなり異なる。豪州の権威あるシンクタンク、ロウィ研究所が載せた記事は、このような海洋法仲裁機関の機能を指摘した上で、南シナ海紛争を仲裁対象にすること自体にもともと無理があったと書いている。 (South China Sea: A course-correction needed

 このような豪州での客観的な分析と対照的に、日本のマスコミ報道では、同仲裁機関の機能が無視され、「裁判所」の「判決」が出たと書かれ、国内裁判所と同等の絶対的な決定であるかのような言葉遣いが意図的に使われている。日本外務省の指示(歪曲的ブリーフィング)に従った中国嫌悪プロパガンダが狡猾に流布されている。日本人の記者や外交官は「豪州は親中派が多いからね」「田中宇も中国の犬でしょ」と、したり顔で歪曲を重ねるばかりだろう。(おそらく日本が第二次大戦に惨敗した理由も、こうした自己歪曲によって、国際情勢を深く見る目が失われていたからだ。分析思考の面での日本人の「幼稚さ」は70年たっても変わらない。近年むしろ幼稚さに拍車がかかっている。悲憤がある) (South China Sea arbitration award solves nothing: senior European parliamentarian

▼中国との交渉再開で裁定を無意味にするフィリピン

 海洋法調停機関は、紛争当事国どうしの話し合いを前提とする規定を自ら無視して、規範外の領土紛争に対する判断を下してしまい、今回の裁定を出した。米日はこの点を無視して中国を非難し、中国は激怒している。だが、こうした行き詰まりを解決する動きが、意外なところから起こされている。それは、紛争当事国であるフィリピンのドゥテルテ新大統領が、先代のアキノ政権が拒否していた中国との直接交渉を再開すると宣言していることだ。ドテルテ政権は海洋法機関が裁定を出した2日後の7月14日、中国と交渉する特使の役目をフィデル・ラモス元大統領にお願いしたいと発表した。 (加速する中国の優勢) (Philippines' Duterte Asks Ex-President to Begin Talks in South China Sea Dispute

 そもそも今回の南シナ海の海洋法調停は、前アキノ政権フィリピンが中国との2国間交渉を拒否して国際調停に持ち込んだところから始まっている。先日フィリピンの政権が替わり、新政権が「やっぱり中国と交渉して解決することにしました」と言い出したわけだから、国際調停に持ち込んだ前提自体が消滅したことになる。ドテルテが大統領になったのが裁定が出る直前だったので、そのまま裁定が出たが、もし裁定が出るのが1-2年後だったら、ドテルテは調停申請自体を取り下げ、途中で終わらせていただろう。 (After Celebrating South China Sea Win, Reality Sets In for the Philippines

 中国は、南シナ海の領有権の主張を撤回しないだろうし、すでに埋め立てた環礁を元に戻すことは拒否するだろう。ドテルテは、それらを受け入れた上で、フィリピンが最重視するスカボロー礁などについてフィリピン側の主張をある程度入れたかたちで、海域の共同利用や共同開発を決めるつもりだろう。フィリピンが南シナ海で譲歩する代わりに、中国がフィリピン本土の鉄道敷設などインフラ整備を手がける構想を、ドテルテはすでに言及している。 (Duterte: China offering to build Manila-Clark railway in 2 years) (China's down but not out, and the Philippines' Duterte knows it

 こうした中比間の和解は、今回の裁定が断定した「中国の違法行為」を容認してしまう。しかし、前出の豪ロウィ研究所の記事によると、海洋法機関は、当事者どうしの和解を最優先し、和解結果の内容が海洋法にそぐわないものであってもそれを支持することになっている。中比の交渉開始は「中国は裁定を受け入れ、埋め立てた環礁を元に戻し、南シナ海から撤退しろ」と求める日米などの主張を国際法的に無効にしてしまう。安倍首相は7月15日、モンゴルでの国際会議(ASEM)の傍らで会談した李克強首相に対し、海洋法裁定を受け入れるように求め、李克強を激怒させて「一本とった」と喧伝されているが、海洋法裁定をめぐる日米の優勢、中国の劣勢がいつまで続くか疑問だ。 (Why the South China Sea Verdict Is Likely to Backfire

▼中国を批判しないEU

 今回の裁定に対する世界の反応を見ると、むしろ国際社会における中国の地位上昇、多極化する世界の中で中国が大国として認知されていく傾向を示してしまっている。安倍が李克強を激怒させた同じASEMの会議でモンゴルや中国を訪問中のEUの首脳たちは、誰もこの件で中国を批判する発言をしていない。EUの大統領であるトゥスク欧州理事会議長は演説で、国際法が守られることが必要だと述べたが、これがこの件に対するEUの最も突っ込んだ発言となった。EUのモゲリニ外相は、南シナ海紛争についてEUがいずれかの国を支持することはなく中立を守ると表明した。 (EU 'doesn't take stance on sovereignty' in South China Sea: Foreign policy chief Mogherini

 EU内では、もともと英仏が南シナ海紛争で中国に厳しい態度をとる傾向にあったが、英国はEU離脱で中国に擦り寄る態度を強めており、フランスも経済関係を重視して最近は腰砕けだ。ハンガリーやギリシャを筆頭に東欧諸国は、中国からの投資がほしいので親中的だ。EUはスロベニアとクロアチアが領海紛争で対立し、海洋法調停に持ち込まれたが不満が大きいクロアチアが昨年調停を離脱し、それ以来海洋法調停を嫌うクロアチアが、南シナ海に関しても中国に同調し、EUとしての中国批判に反対している。EUは、米国からの「お前らも中国を批判しろ」という圧力をかわすためもあり「この件について内部分裂しているので中国を批判できません」という逃げ腰の態度をとっている。 (EU's silence on South China Sea ruling highlights inner discord

 裁定が出る前、米欧のいくつかの分析は「裁定後、EUや英国が中国を批判し始めたら中国の負け、米国の勝ち。欧英が中国を批判しなければ中国の勝ちになる」と書いていた。結局、EUも英国も中国を批判していない。この現象は昨年春に中国がAIIB(アジアインフラ開発銀行)を設立した時の繰り返しだ。米国が世界を引き連れて中国を批判しようとするが、喜んで乗ってくるのは日本だけで、欧州や東南アジアなどその他の国々は米国に同調せず、抜け駆け的に中国の側についてしまう国が相次ぐ。 (Western Retreat Makes Room for Chinese Advance) (Europe goes soft with China over South China Sea ruling) (日本から中国に交代するアジアの盟主

 今回の裁定も、米国の圧力で世界が動いてきた米国覇権体制の解体と、世界の多極化、中国が極の一つとして世界から認知される流れを顕在化させる結果となっている。その意味で、今回の裁定は、中国をへこますどころか逆に中国の台頭を示すものになっている。 (日本をだしに中国の台頭を誘発する

▼中国は米国を真似しただけ

 米国は中国に対して「海洋法条約を守れ。裁定に従え」と要求するが、米国自身は海洋法条約に入っていない。批准どころか署名もしていない。その理由は、もし米国が海洋法条約に入り、今回の中国と同じような裁定を米国が食らい、それに従わねばならない状態になると、米国自身が裁定を無視することになるからだ。覇権国は、自国の国益にならない行動を他から求められても、拒否してかまわない。それは、教科書に書いていない世界の不文律だ。米国の共和党系(リアリスト)の権威ある国際分析サイト「ナショナル・インテレスト」が、そのように解説する記事を出している。 (3 Myths About China and the South Sea Tribunal Verdict

 戦後の世界で単独覇権国だった米国は、自国の国益に反する裁定をつきつけられて無視して権威を落とすぐらいなら、最初から加盟しない方が良いと考えて、海洋法条約に署名していない。国際法とは、覇権国以外の中小の国々が守るべきものであり、覇権国(大国)は必ずしも遵守しなくてよい。建前的に「人間はみな平等」「国家はみな平等」であるのだが、実際はそうでない。権力者、覇権国は実質的に超法規的な存在だ。米国はイラク侵攻という重大な国際犯罪を犯したが、裁かれもせず、ほとんど反省もしていない。(弱い立場の国がいくら世界平和を提唱しても、世界は平和にならない)

 米国は、海洋法条約に署名しないことで「覇権国はこんなもの守らなくていいんだ」と言い続けている。中国は、これまで自国を発展途上国と考えてきたので、海洋法条約に入っている。しかし今、習近平になってからの中国は、自国を「多極型世界における、米国(やロシアなど)と並ぶ地域覇権国」と考えるようになった。中国が米国と対等な地域覇権国であるなら、米国が守らない海洋法条約を、中国も守る必要がない。しかもすでに中国は、もし米国が南シナ海で戦争を仕掛けてきても負けない軍事力を持ち始めている。

 中国は、2国間の話し合いで東南アジアの中小国を威圧しつつ経済援助で丸め込み、南シナ海を全部自分のものにしようとしている。それは政治的に汚いやり方だが(米国のイラク侵攻のような)軍事侵攻によるものでないので国際法違反でない。それなのに米国はフィリピンをそそのかし、2国間交渉を破棄させて海洋法機関に提訴させ、欧州人の判事たちに基幹の規範を逸脱する領土紛争に介入した裁定を出させ、中国に守れと要求してきた。このジャイアン的な米国の行為に、スネオ日本が、虎の威を借る狐的に、嬉々として追随している。

 米国と並ぶ大国を自称する中国は、当然ながら裁定を無視する。中国は、米国の真似をしただけだ。裁定を無視されても、米国は中国を武力で倒せない。しかもEUなど他の大国は、米国に求められても中国を非難しない。EUは多極化を認知し「大国(地域覇権国)どうしは喧嘩しない」という不文律に沿って動き始めている。同盟国のくせに「そもそも本件は海洋法の仲裁になじまない」などと中国の肩を持つ奴(豪)まで出てきた。中国が、国際政治的にも軍事的にも、米国と並ぶ地域覇権国であることが明らかになりつつある。米国は、過激な裁定を海洋法機関に出させることで、中国を、自国と並ぶ地域覇権国に仕立て、多極化、つまり米単独覇権体制の崩壊を世界に知らしめてしまった。これに気づいていないのはスネオだけだ。

 前出のナショナルインテレストの記事は「米国が、中国を中小国扱いし続けて無理やり中国に裁定を守らせようとすると、アジアを不安定化してしまう。むしろ、早く中国を自国と並ぶ大国と認めた方が(つまり米単独覇権から多極型覇権への世界の転換を認めた方が)世界は安定する」と、米政府に忠告している。同記事は「中国が南シナ海に防空識別圏を設定することは、合法だし、他国(米国)からの軍事介入を防ぐ意味でもいい方法だ」と勧めることさえしている。

 米国が12年に「アジア重視」と称して南シナ海の紛争を煽った時、オバマ政権でそれを担当したのはクリントン国務長官だった。彼女は今も好戦派として大統領選を突き進んでいる。万が一、彼女が大統領になっても、そのころには中国が米国と対等な地域覇権国である状態は不可逆的に今よりさらに確定しているだろう。いずれ米国は、中国を、自分と対等な大国として認め、覇権の多極化を肯定するしかない。米国より格下の国として自国を形成してきた日本は、米中が対等になると、米国だけでなく中国よりも格下の国になる。日本は、すでに中国に負けている。



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