小船で欧州に向かう中国人 96/06/20

インドネシアの新聞が6月3日に報じたところによると、インドネシアのスマトラ島南部の港に先日、中国人86人が乗った船が入港した。乗っていた人々は、食料と燃料がないので援助してほしい、と求め、近くの町に駐屯しているインドネシア軍の部隊がそれに応じた。中国人たちは広西省の住人だったが、「中国政府の鎮圧を受けた」ため5月15日に中国を出港し、欧州に向かう途中だと説明した。乗客、乗員は誰もパスポートを持っておらず、船の船籍などを証明する書類も何もなかった。船はしばらく港に停泊した後、欧州の方向に出港していったという。

 これはロイター通信が転電したものを、香港の「明報」が中国語に訳してインターネット上に掲載し、それを私が日本語に翻訳した。これだけの内容の簡単な記事なのだが、いろいろと考えさせられた。
 おそらく彼らの船は、漁船か小さな沿岸輸送用の貨物船であろう。インドネシアからインド、アフリカ東海岸、希望峰、アフリカ西海岸を回って(それともスエズ運河を無料で通り抜けて)欧州に着くまでは、まだ2ヶ月ぐらいはかかるのではないか。その間に何回か燃料や食料を補給せねばならならいのだが、どうするのだろうか。人数からみて、一行はいくつかの家族から成り立っていて、女性や子供も多いに違いない。一体何のためにそんな無謀なことをするのだろう。

 多分、欧米に行けば高い収入が得られる仕事があるとの予測からだろう。欧米で働く中国人の多くが、中国人の斡旋業者に、出国から就職までを按配してもらっている。彼らもそうした人々の一部で、もし欧州のどこかの国まで無事に行けば、彼らを引き受けてくれる中国人が待っている手筈になっているのかもしれない。だが、それにしても無謀だ。今や中国は「改革開放」で金儲けの時代なのだから、そんな危険なことをしなくても、広州に行けば何とか仕事を見つけられるのではないか。欧米に行っても斡旋業者に高い金をとられたり、労賃をピンはねされたりするに違いないのだが。

 このニュースを見て思い出したのが、中国の大航海時代のことだ。広西、広東、海南島などの中国人は、12世紀ごろから南シナ海を航行し、貿易や海賊行為をしていた。彼らの一部はマラッカ海峡を越えて、インドやアラビア半島、アフリカ東海岸まで行き、貿易をしていたといわれている。アラビア半島からは逆に、イスラム教徒の商人が東に向かって航海してきており、その影響から、中国人でイスラム教徒になる人も多かった。
 彼らは「回回民」と呼ばれ、今も中国にその子孫が約400万人(?うろ覚え)いるという。明の時代に皇帝の命を受け、鄭和という人をリーダーとする船団が、アフリカ東海岸まで「探検」しに行った。一行には、鄭和自身を含め、多くがイスラム教徒がいた。その後、清朝時代あたりから、外から危険な文物を持ち込まれることを恐れ、海外に出かけることは禁止された。

 今回、広西から欧州に向かっている人々がイスラム教徒かどうかなどということは、全く分からない。だが、彼らの脳裏には、鄭和の時代から中国人が乗り出てきた大航海の歴史の記憶が残っていたのではないか。こちらの思い込みという感じもするが。
 実際、中国人がこのような小舟に乗って行く先は、欧州だけではない。近くは福建省あたりから日本に来る「経済難民」の人々や、太平洋を渡ってメキシコに行き、上陸して米国国境に向かう人々のことが報じられたこともある。もしかすると、ニュースの片隅に引っ掛かった彼らだけでなく、欧州や北米に向け、人知れず今夜あたり、小舟で中国の小さな港を出発する人々もいるのかもしれない。疲れ切ってアフリカ西海岸を北上している船もあるのかもしれない。何やら壮大な話である。東京でサラリーマンをしている自分が小さく思える話である。

 最後に蛇足。彼らが中国政府からどんな「圧政」を受けたか分からないが、うがって考えれば、それは出国を希望する中国人の多くが「処世術」として言っていることと同じことなのかもしれない。
 1989年の天安門事件の後しばらくの間、中国でも名の通っている日本の日本語学校には、「天安門事件の関係で弾圧され、身の危険を感じている。これは人権問題である。日本語学校に留学するということなら出国ビザが出るのだが、金もツテもない。貴校が受け入れてくれるという保証書を送ってもらえるとありがたい」という内容の、無数の依頼の手紙が届いた。これと同じだ。広義の意味での「身の危険」が半分、残りは「もっと豊かな暮らしをしたい。海外に行ってみたい」という希望である。こういうことは、どの民族でも同じだろう。