上海からの手紙・赤いネッカチーフの進学競争

97/02/18


 中国情勢に関心のある方々なら、「小皇帝」という言葉をご存知だろう。人口抑制政策により、中国の都会の家庭では、子供といえば一人っ子になっている。そのため、子供は大家族の中で父母や祖父母の愛を一身に受け、わがまま放題。その様子が皇帝のようだというので、都会の一人っ子を指して「小皇帝」と呼ぶ。

 ところが、よく見ると子供稼業も楽ではない。なぜか。社会主義だろうが資本主義だろうが、東アジア地域に民族と国家を超えて存在する子供の苦労、「ガリ勉」をしなければならないからだ。
 このホームページの読者の一人に、日本企業の上海駐在員をしている日本人の方がおり、ときどき作者に現地情勢を書いたメールをくださる。その中に、上海の「小皇帝」たちがガリ勉をさせられる様子が書いてあった。中国では外国企業の駐在員に対して、当局の監視や思わぬちょっかいがあるので、お名前を出せないが、内容を紹介すると・・・。
(以下、引用)

 これは中国の新聞にも書いていないことで、地元の大学生から聞いた話です。上海人の子供は例外なく一人っ子(双子以外)で、親の期待を一身に受けて育ちます。
 その子供たちをよく見ると、首に赤いネッカーチーフを巻いている子供達がときどきいます。これは小学校に入学してからのもので、入学するとしばらくして、先生が最も勉強が優秀で、生活態度も良い学童一人にネッカチーフを渡します。しばらくすると、また別の優秀な学童に渡していきます。
 上海の子供達はこうして赤いネッカーチーフを目指して、次は重点中学、重点高校(優秀な学生を集めたのが重点学校)、一流大学入学と、選抜競争を続けていきます。国有企業に勤める両親は夕方4時半には仕事を終えますが、子供達はみんな夜遅くまで勉学にいそしむとのことです。激しい受験戦争を勝ち抜いて大学に入れる子供はごく一部で、彼らが中国のエリートになります。

 一方、先生方は薄給ですが、教育熱心な親たちから頼まれて、自分の教え子を学校以外で家庭教師をして、副収入に励んでいるとのことです。
 自分の教え子の家庭教師をするのは、副収入以外にも理由があります。自分の教え子が何人大学に進学したかで勤務評定が決まり、ボーナスも違ってくるからです。小学校の先生であっても、教え子の中学校進学だけでなく、その後何人が大学に入ったかまでチェックされるとのことです。

 上海に住んでいる邦人家族の中でも、せっかく中国に来たのだからと、子供を地元の学校に通学させている親がいます。しかし、その日本人親子が驚くのは、上海の学校のレベルの高さや宿題の多さで、言葉のハンディだけでなく、教育水準が高すぎて音を上げる人が多いとのことです。

 とはいえ、教育熱心なのは中国でも大都会の人だけで、農民のほとんどは子供の教育に熱心ではないそうです。大卒の上海人は農民を指して「文化が違う」とよく言いますが、都市住民と農民は戸籍が違うでけでなく、彼らの間の距離は我々が想像するよりかなり離れているようです。
(引用終わり)

 さすが「科挙」の国、「孟母三遷」の国である。日本や韓国の受験戦争のルーツは科挙(中世中国の高級官僚登用試験。高い競争倍率と、日本の司法試験をしのぐであろう膨大な勉強量が必要なことで知られる)だったことを思い出せば、中国の子供のガリ勉ぶりも、さもありなんという感じだ。

 もう一つ思ったのは、経済発展続く中国の沿海部の大都市の人々の生活は、次第に先進国に近づきつつあり、その中に受験戦争も含まれるのではないか、ということだ。たとえば、去年のクリスマスの前後、英語の新聞では、北京や上海でツリーやケーキ、子供へのプレゼントなど、日本や欧米同様、クリスマス行事に金をかけることが流行したと報じていた。これなども、中国の大都市の人々が、先進国の標準となっている生活を目指していることが感じられる。
 とはいえ、必ず「大都市の」中国人、と限定をつけねばならない。メール筆者の駐在員氏が指摘するように、農村と都市の格差は大きい。

 赤いネッカチーフは、おそらく中国が純粋社会主義をやっていたころからの伝統だ。当時は成績優秀、品行方正、両親とも貧困層の出身という子供は、共産党の青年団に入るよう推薦を受け、入ると赤いネッカチーフを巻くことを許された。また当時から、大学の入学者は、青年団に入れるような子供たちの中から、厳しい試験で選ばれていた。赤いネッカチーフは中国だけでなく、北朝鮮やソ連の共産党青年団にも共通した制度だった。ロシアが発祥地だろう。
 もしかしすると、科挙から始まり、赤いネッカチーフに至る、激しい競争の歴史があったゆえに、中国人は資本主義の競争原理にも、みごとに適応している(適応しすぎている?)のかもしれない。

 最後に蛇足。赤いネッカチーフについての記述を読んで思い出したことがある。戦前の満州には、日本国籍にさせられていた朝鮮人がたくさんおり、子供たちは日本語の教育を受けていた。だが、家庭では朝鮮語を使っているので、なかなか日本語を覚えない。そこで、学校の先生(日本人)が思いついたのが、休み時間などに校内で朝鮮語を話した生徒に「私は日本語を話しました」などと書いた木の板を渡し、その生徒は別の生徒が朝鮮語を使っている現場を発見したら、すかさずその木の板を渡す、という方式だった。こうすれば、生徒たちは自主的に朝鮮語を話さなくなるというわけだ。中国吉林省延辺朝鮮族自治州の老人から聞いた話である。

同じ方からのメール 「日本人駐在員の苦労」

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