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パレスチナ見聞録(1)ガザ地区

2001年1月15日   田中 宇

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 パレスチナのガザ市は、地中海に面した町で、海辺のウォーターフロントにはおしゃれなデザインのホテルがいくつも立ち並んでいる。1995年にイスラエルとの間でオスロ合意が結ばれ、パレスチナが独立国家になるための暫定期間が始まって以来、ガザを地中海のリゾート地にして新国家の収入源にしようという計画が進み、ホテルが相次いで建てられた。私はそのホテル群の一つに泊まって、この文章を書いている。(執筆は1月9日)

 ガザ市を中心としたガザ地区は、イスラエルがパレスチナ人を押し込めておくための、広大な収容所のような場所である。東西10キロ、南北40キロの細長い海岸地域で、東京都23区や横浜市などとあまり変わらない広さの場所に、100万人近いパレスチナ人が住んでいる。彼らはイスラエルから例外的な許可(イスラエルへの日帰り出稼ぎ許可など)をもらわない限り、地区の外に出られない。

(イスラエルからみれば、パレスチナ人のテロ活動を防ぐためにガザの周囲を警備しているだけで、収容所などではないということになる。イスラエルはガザを自国領土として、都市基盤整備などをある程度は行っている。とはいえ、ガザ市は停電が多いなど、都市基盤は最低限のものでしかない)

▼中東戦争で生まれたガザ地区

 ガザ市や、ガザ地区のもう一つの町ハンユニスは、古くからの聖都であるエルサレムとエジプトを結ぶ商隊ルート上にある宿場町だった。エジプトに向かう人は、シナイ半島の砂漠を越える前に、ガザとハンユニスで砂漠越えの準備をした。シナイ半島から向こうはアフリカだから、ガザはアジアとアフリカをつなぐ場所に位置している。

 とはいえ、ガザ地区が現在のように独立した地域として見られるようになったのは、50年ほど前からのことにすぎない。それまでイギリスの信託統治領だったパレスチナ地方に入植していたユダヤ人たちが、1948年にイスラエルの建国を宣言したが、エジプト、シリア、レバノン、ヨルダンのアラブ連合軍はイスラエルを攻撃して第1次中東戦争が起きた。イスラエルは攻撃をはね返して独立を維持したが、この戦争でエジプトはガザ地区を手に入れ、ガザと他のパレスチナ地方との間に国境が引かれることになった。

 ちなみに、この戦争でヨルダンは「西岸地域」を手に入れて併合した。この戦争は結果として、イスラエル、エジプト、ヨルダンがパレスチナ地方を分割する分捕り合戦になった。戦争が起きるまで、イギリスや国連は、パレスチナ地方にユダヤ人国家とパレスチナ人(アラブ人)国家の2つの国を作る計画を進めていたが、戦争はパレスチナ人国家の成立を不可能にした。

 この戦争中にガザ地区には、イスラエルから追い出されたパレスチナ人(アラブ人)たちが難民となって逃げてきて、人口はそれまでの6万人から25万人へとふくらんだ(その後、第3次中東戦争の難民や自然増などで、さらに3倍以上になった)。

 エジプトはガザ地区を併合したものの、住民や難民に市民権や国籍を与えなかった。ガザの人々はエジプト人と同じアラブ人だったのに、エジプトの国籍を与えなかったのは、無国籍の「パレスチナ人」にとどめておくことで、イスラエル攻撃の尖兵として使うためだったと思われる。ガザを収容所に仕立てる意志を持っていたのは、イスラエル側だけではない。

(カイロで出版社を経営するエジプト人と、この件で話をした。その人は「パレスチナ人が500人もイスラエル兵に殺されたんだ」と熱っぽく語ったあたりまでは調子がよかったが、エジプト政府がガザの人々に国籍を与えず「収容所」的な状況に押し込めたことについて私が尋ねると、答えがないまま別の話題に移ってしまった)

 その後、イスラエルが先制攻撃をして圧勝した1967年の第3次中東戦争で、ガザはイスラエルに占領され、現在までイスラエルによる領有が続いている。この間、治安維持を目的としたイスラエル軍によるパレスチナ人に対する無数の弾圧や人権侵害が、NGOによって報告されている。

▼インティファーダで変わった力関係

 イスラエル軍による圧政は、1987年に始まった「インティファーダ」で大きく変わった。インティファーダは、ガザや西岸のパレスチナ人の青年や子供たちが、占領や弾圧に反対し、検問所などを守るイスラエル軍に対して投石する行為で、ガザ市内にある難民キャンプで偶発的に発生し、イスラエル占領下のガザ・西岸地域全体に広がった。

 PLO(パレスチナ解放機構)などパレスチナ人抵抗組織の多くは、それまで海外のイスラエル関連施設の爆破や民間機ハイジャック、1972年のミュンヘンオリンピックにおけるイスラエル選手団の殺害など、テロ行為によってイスラエルに対する攻撃とする戦略をとっており、「投石」は攻撃メニューには入っていなかった。

 だが草の根から発生したインティファーダは、世界のマスコミの目をパレスチナの人権問題に向けることになった。子供の投石に対し、重装備したイスラエル兵が発砲で応じるシーンがテレビで流れ、イスラエルの占領に対する反感が世界的に強まり始めた。大人たちのテロ活動よりも、子供たちの投石の方が、反イスラエル運動としてはるかに効果があることに気づいたPLOは、インティファーダに便乗し、これをPLOが率いるパレスチナ人全体の運動として宣伝するようになった。

 インティファーダを機に、国連でもパレスチナの人権問題を解決すべきだとの意見が強まった。PLOはそれまでイスラエル国家を認めず、イスラエルを消滅させてパレスチナ地方全体を統治するパレスチナ人(アラブ人)中心の国家を作る方針をとっていたが、国連などからの要請を受け、イスラエルを承認した上で、ガザと西岸だけに限定したパレスチナ人国家を作る方針に転換した。この転換の裏には、「パレスチナ人国家が創設されれば、自分がそのトップになれる」という、PLOのアラファト議長の野心があったと思われる。

 イスラエル側は当初、PLOを「ナチスと同類の集団」とみる立場を崩さず、パレスチナ側との交渉を拒否していたが、アメリカに「歴代大統領の中で最もイスラエル寄り」といわれるクリントン政権が誕生した後、アメリカの仲介でアラファトと交渉することに了解し、93年のオスロ合意が締結されるに至った。

▼アラファトへの不信感

 だがその後もイスラエル国内には、アラファトやPLOに対する不信感は強かった。ネタニヤフやバラクといった首相ら指導者を筆頭に「イスラエルが気を抜けば、アラファトは再びイスラエルをアラブ人の土地として『解放』しようとするに違いない」と考える人が多い。

 そのため交渉は何度も暗礁に乗り上げ、クリントンは今年1月20日で大統領の任期が終わるまで、中東和平交渉に奔走することになった。(次に大統領となるブッシュは、石油産業との関係が強い人なので、クリントンよりも親アラブ・反イスラエルの立場をとると予測されている)

 行き詰まりを打開し、イスラエルに圧力をかけるため、PLOは昨年9月から第2次インティファーダ運動をスタートさせ、世界の目がパレスチナに集まったが、交渉はまとまらず、今日に至っている。(今回も運動は自発的に始まったとされているが、パレスチナの公共テレビ放送は連日インティファーダを賛美する番組を流しているので、PLO肝いりの運動に違いない)

 交渉の進展に対しては、パレスチナ人の中にも反対が強い。その理由は(1)西岸やガザ、レバノン、シリアなどに住んでいるパレスチナ難民のイスラエル領内への帰還が認められていない、(2)パレスチナの首都となるべき東エルサレムの引き渡しをイスラエルが拒否している、(3)そもそもイスラエル領全体を含めたパレスチナ全土を「解放」し、イスラエルを「消す」まで戦うべきだ・・・といったものだ。

 パレスチナ内部には「ハマス」「イスラム聖戦」「ファタハ・タンジーム」など、アラファトの和解路線に反対しつつ、民衆の支持も得ている勢力がいくつかあり、彼らはテロ活動も行っている。

▼外国人に親切な一般のパレスチナ人

 交渉がまとまらないので、ガザ地区はイスラエル軍によって包囲されたままで緊張が続き、人の移動も制限されているため、観光客もまったくこない。そのためガザ市の海岸にあるホテルはほとんど誰も泊まっていない。今このホテルに泊まっているのは、私のほか、ヨルダン人の国連関係者が一人だけである。(本来一泊100ドル近い宿泊代は50ドルに下がっていた)

 イスラエルからガザに入る境界線の検問所の内側には、タクシーがたくさん止まっているが、ほとんど人が来ないため手持ち無沙汰で、旅行者が一人でもイスラエルから入国してくると、皆で取り囲んで何とかタクシーに乗せてしまう。

 検問所を出て500メートルほど歩くと、一般のガザ住民のためのミニバス(乗合タクシー)乗り場がある。旅行者にそこを見つけられると、タクシー運転手たちはわずかな収入の可能性すら失ってしまうので、必死の形相で旅行者が検問所から出て行かせないようにする。(ガザ市内まで、タクシーだと300-1000円相当だが、乗合だと60円)

 しかし、旅行者馴れしてボッタクリのテクニックが上手なエルサレムのパレスチナ人とは異なり、ほとんど旅行者がこないガザの客引きは「生活が苦しいんだから俺の車に乗ってくれ」などと懇願するばかりで、ボッタクリ話術も洗練されていなかった。

 とはいえ、ガザや西岸の一般のパレスチナ人は、自分たちの現状を見に来てくれた外国人客に対し、非常に親切にしてくれる。私は3年ほど前にもガザに来たことがあるが、その時も大歓迎され、ハンユニスの難民キャンプの青年宅に泊めてもらったりした。今回も、私が町を歩いただけで、あちこちから声をかけられ「お茶を飲んでいかないか」などと誘われた。パレスチナ問題を世界に知ってもらうため、英語を勉強しているんだという青年もいた。

 旅行者に対し、彼らは喜んで市内を案内し、自宅に招いてくれる。お金などまったく受け取ろうとしない。そしてパレスチナ問題について、カタコトの英語で説明しようとする。

 その感覚を持ったままエルサレムに戻り、観光地の旧市街でパレスチナ人から「案内してあげよう」と言われ、そのままついて行くと「ガイド料」と称して10ドルとか20ドルとかを請求され、言い合いになったりする。同じパレスチナ人ながら、観光で稼ごうとする人々と、それ以外の人とでは、旅行者に対する接し方は大きな差がある。これは隣国エジプトなどでも同様だった。

写真:ガザの若者

(続く)



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