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アメリカとイラク・対立の行方

2001年2月19日   田中 宇

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 イラクとアメリカの対立が、再び世界のマスコミの大見出しを飾るようになった。湾岸戦争が終わってから、今年の2月でちょうど10周年になるし、湾岸戦争を起こしたアメリカの大統領の息子ブッシュが大統領になったばかりだ。副大統領(チェイニー元国防長官)や国務長官(パウエル元参謀本部議長)ら、新政権の高官も湾岸戦争を指揮した軍人あがりなので、就任祝いの景気づけに、かつての仇敵サダム・フセインに一発お見舞いした・・・と考えたくなるが、調べてみると事情はもう少し複雑なようだ。

 前回、アメリカがイラクを大々的に攻撃したのは1998年末のことだ。「国連査察団」の肩書きでイラクの大量破壊兵器を査察に行ったアメリカ人らが、査察活動にかこつけてアメリカのためにスパイ活動をしたとしてイラクから追放された報復に、イラクの首都バクダッドを攻撃した。

 だがその後、アメリカはイラクに対する大きな攻撃を避けるようになった。クリントン政権は、なるべくイラクのことがニュースにならないように心がけていた。湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍にたたかれたサダムフセインは、停戦の際「今後は化学兵器などの大量破壊兵器を持ちません」と約束させられ、それを確認するために国連査察団が派遣された。だが、査察団が「スパイ疑惑」で追い出された後、別の査察団をイラクに入国させろと要求するアメリカの動きは、尻すぼみになった。

▼イラクよりパレスチナが先だったクリントン

 私がみるところ、クリントン政権がイラク問題で沈黙した背景には「イラクよりパレスチナの問題を先に解決する」という戦略の転換があった。サダムフセインがアメリカを悩ました最大の要因は、彼が中東地域で唯一「アメリカとイスラエルを倒せ」と声高に叫んでいる国家指導者である、という点にある。

 彼の叫びはイスラエルに弾圧されているパレスチナ人と、パレスチナ人に同情する他のアラブ諸国の人々の心に響き、パレスチナ問題が深刻になるたびに、中東じゅうで反米運動が起きることになる。

 イラク以外のアラブ諸国は、親米政権(エジプト、ヨルダン、サウジアラビアなど)か、もしくは親米ではないがアメリカと敵対することにもすでに疲れている(シリアやイラン)。だから、サダムの叫びに同調したアラブの人々は、同時に「うちの政府は何をやっているんだ」と思うことになる。サダムが叫ぶほど、エジプトやヨルダン、サウジの体制は揺らぎ、アメリカの中東支配も不安定になる。

 湾岸戦争後しばらくたって、手際よくフセイン政権を倒せないことを自覚したアメリカは、声高に叫んでいるフセインを消すのではなく、彼が声高に叫んでも大して効果がないような状況を作ろうとした。つまり、パレスチナ問題を解決することで、中東の人々がアメリカ嫌いになる根元をなくそうとしたのである。

▼オスロ合意崩壊に合わせて動き出す

 2年前にアメリカがイラクを大攻撃した半年後には、イスラエルの選挙で反和平派のネタニヤフが負け、和平派(と思われていた)バラクが首相になった。この変化を機に、クリントンは「パレスチナ人国家を作ってイスラエルと仲良くさせる」という「オスロ合意」のシナリオを実現することに全力を傾けるようになった。

 しかし、オスロ合意体制の実現は果たせずに終わった。(この経緯については以下の記事を参照)
イスラエル選挙で終わった「冷戦後」
イスラエルに未来はあるか
パレスチナ見聞録(1)ガザ地区

 昨年秋、バラクとアラファトの間でオスロ合意以来の交渉をしめくくる最終合意が結ばれかけたものの結局破綻すると、サダムフセインも動き出した。パレスチナでイスラエル軍に対する投石運動「インティファーダ」が広がり、多くのパレスチナ人青年が射殺されるようになると、フセインは約300人の死者の遺族に1万ドル(115万円)ずつお金を出すというパフォーマンスを展開し、パレスチナ人の支持を強めようとした。

 フセインは昨年秋、東隣のヨルダンとの国境近くに軍を結集させ「ヨルダンが国内の通行を許すなら、イラク軍はヨルダンを通り抜けてイスラエルへ進軍し、聖都エルサレムを奪還する」と宣言した。親米国であるヨルダンが通行を許すはずがなかったので、これはアラブ諸国の国民からの支持を狙った宣伝でしかなかったが、フセインの健在ぶりをPRする効果はあった。

▼破綻しかけている経済制裁

 しかも、兵器に対する国連査察と並んで、イラクの再武装をくい止めるために行われてきたアメリカ主導の国連の対イラク経済制裁も、昨年からしだいに失敗の様相が濃くなった。サダムフセイン政権を弱体化させるどころか、強化してしまったからだった。

 イラクの輸出入を禁止する経済制裁は抜け穴が少なくて非常に効き目があり、輸入品を全く手に入れられなくなった一般のイラク人の生活は、大きく悪化した。そのため、国連は軍事転用できない製品に限り、生活必需品の輸入を認め、輸入に使う外貨を作るための石油の輸出を、量を限定して特別に認めた。

 だが「人道援助」と呼ばれたこの政策は、一般の人々がフセイン政権による配給に頼らざるを得ない状況を作り出した。しかも、その後もアメリカは医療器具から自動車部品、インクなどの日用品に至るまでのいろいろな製品を「軍事転用が可能だ」「化学兵器の材料に使われるかもしれない」などとして、イラクが輸入できる「人道物資」の対象から外させた。その結果、人道援助は不完全なものになった。

 イラクは、1980年にイラン・イラク戦争を始めるまで、石油収入によって中東で最も豊かな国の一つで、教育水準が高い中産階級が育っていた。彼らは、イラクの民主化を担うはずの人々だった。

 しかし、8年間のイランとの戦争に加え、90年の湾岸戦争でイラク経済は壊滅し、その後も経済制裁が続いて復興できなかった。国民の1割にあたる200万人が欧米や周辺のアラブ諸国に逃げ出し、国内に残った人々は貧乏になって、中産階級は消滅した。そのためアメリカが経済制裁によってフセイン政権を窮地に陥れ、イラク国内の反政府運動を高めたいと考えても、経済制裁が民主化運動の担い手を消してしまった以上、それは無理な話だった。

▼石油相場を動かすフセイン

 イラクの経済制裁がフセイン政権を窮地に陥れず、一般のイラク国民の生活を破壊するだけなのをみて、99年ごろから、周辺アラブ諸国の世論が経済制裁に反対し始めた。その流れに乗って、フランスやロシアなど、歴史的に中東への支配意欲を持つ国々が、経済制裁に反対しつつイラクに接近し、輸出を制限されているイラクの石油に手をつけようと動き出した。

 彼らには、冷戦後にアメリカだけが世界を支配している現状に対する不満もある。湾岸戦争当時、イラクへの制裁を決めたのは国連の安全保障理事会だったが、その常任理事5カ国のうち、アメリカとイギリスをのぞくロシア、フランス、中国が、対イラク経済制裁を緩和すべきだと主張するようになった。そして残るイギリスも現状のイラク制裁に欠点が多いことを認めてアメリカに再考を促し、ブッシュ新政権も制裁の「見直し」を検討していると報じられている。

 「人道援助」の体制下では、イラクが輸出した石油の代金は、国連が監視する特定の銀行口座に入り、フセインが石油代金で武器などを買えないようになっている。しかし、イラクは隣国ヨルダンにタンクローリーを走らせたり、シリアとのパイプラインをつないだりして、ここ1年ほどの間に、国連の監視外のところで石油を売る動きを強め、今やイラクは世界の産油量の5%以上のシェアを持つようになっている。

 自信をつけたフセインは昨年11月、石油輸出価格を1バレルあたり50セント値上げし、値上げ分の代金は、国連の特定口座ではなく、国連の監視を受けない他の口座に振り込むよう、世界の石油会社に対して申し渡した。アメリカ政府は、イラクに譲歩しないよう石油業界にクギを刺したため、石油会社はイラクからの石油を買えなくなり、世界の原油相場が値上がりする様相を見せた。

 アメリカ政府は急いで国内の石油備蓄を放出し、相場の上昇を防いだが、フセインは「その気になれば世界の石油相場を動かせるんだ」という強気の姿勢を世界に見せた。石油業界と密接なつながりを持つブッシュ新政権は、このようなフセインの行為を見て、反撃が必要だと考えたに違いない。しかし、対イラク経済制裁が失敗し、アメリカ批判が高まっている中で、有効な反撃をすることは難しい。

▼不必要な飛行禁止区域

 アメリカとイギリスは、国連の経済制裁とは別に、独自の軍事制裁も行っている。イラクの北部地方(北緯36度以北)と南部地方(北緯33度以南)に対して、イラク軍用機が飛ぶことを禁じ、違反がないかどうか英米の空軍機が警戒飛行を続けている。(国連はこの行動を承認していない)

 イラク南部にはシーア派のイスラム教徒が住み、北部にはクルド人が住んでいる。シーア派はイラク国民の6割を占めているにもかかわらず、フセイン自身やイラク支配層はスンニ派イスラム教徒が独占し、シーア派は外されているため、フセイン政権への不満が比較的強い。

 またクルド人はイラク国民の15%を占めるが「国家なき民族」と呼ばれ、イラク北部、イラン西部、トルコ東部の3地域にまたがって住み、いずれの国でも分離独立傾向が強いとして政府から弾圧・警戒されている。

 これらの2種類の人々は湾岸戦争の末期、フセイン政権が倒れると予測し、CIAなどからの軍事物資補給もあり、フセイン政権に対して反旗を翻した。 しかし、予測に反してフセインは事態の立て直しに成功し、シーア派とクルド人の地域に軍を派遣して残虐に鎮圧した。

 アメリカはシーア派の「人権擁護」を名目にイラク南部に進軍することも検討したが、ベトナム戦争のような膠着状態になる可能性があったので、代わりにイギリスとフランスを誘い、空からイラク軍の侵攻を監視する現体制に切り替えた。しかし、イラク軍の鎮圧作戦によって反体制派は96年ごろまでに根絶やしにされてしまい「飛行禁止」にしておく必要がなくなった。

 そのためフランスはこの作戦への参加を止め、英米を批判する側に回ったが、アメリカとイギリスは「監視飛行」を続けた。飛行禁止区域の存在を認めないイラク軍が、監視飛行の英米戦闘機に向かって地上から発砲するたびに、英米は「正当防衛」として反撃していたが、「イラクよりパレスチナが先」と考えたクリントン政権はことを荒立てたくなかったので、飛行禁止区域の外にある攻撃対象には手を出さなかった。

 ところがブッシュ政権になって、南部の飛行禁止区域のすぐ北にあるバクダッド郊外のレーダー施設が英米軍の監視飛行に発砲するための基地として使われているとして、爆撃の対象に加えられた。これが、米軍によって2年ぶりに実施された2月16日の攻撃であった。

 そもそも、シーア派やクルド人がフセインへの反抗を止めた結果、イラクの南北にある「飛行禁止区域」の存在がもはや必要なくなっているため、この爆撃は欧州諸国やロシア、アラブ諸国からの反発を受けることになった。イギリスも、この作戦から撤退したいという意志をほのめかしている。

▼分裂するブッシュ新政権

 こうした窮状に対し、ブッシュ政権内部では今後の方針について「強硬派」 と「現実派」とが分裂している。「現実派」は、パウエル国務長官を筆頭とする人々で、飛行禁止区域は無意味になったことを認めて解除し、経済制裁も「的を絞った効率的なものに変質させる」という転換(事実上の制裁緩和)を主張している。

 パウエルは10年前の湾岸戦争の発生時も、米軍が直接クウェートに侵攻するより、経済制裁でイラクのクウェート撤退を導いた方が良いと主張し、後にはイラク本土への進軍を止めるなど、軍人ながら、直接軍事行動のマイナス面(ベトナム戦争的な泥沼化の恐れ)を重視しているふしがある。

 一方、チェイニー副大統領や国防省幹部らは、むしろ強硬策を続け「イラク反政府勢力」への支援を強化してフセイン政権を倒す方が良いと主張している。 この「反政府勢力」とは、かつてフセイン政権の高官などだったが、その後フセインに忠誠を疑われたりして国外へ逃げた人々を集めた勢力で、ロンドンを拠点にする「イラク国民会議」が中心となっている。

 この反政府勢力の問題点は、個人的な野心で動く人が多いため、仲間割れがひどいことだ。かつてはフセインに取り入っていた人が多いので、中東などの亡命イラク人社会の中でも、一般の人々からは嫌われる傾向が強い。

 しかも、組織内にフセインが送り込んだ二重スパイがいるとも指摘されている。アメリカ政府は湾岸戦争後、この勢力を使ってフセイン政権を倒そうとしたが、反政府勢力が決起する直前、イラク国内の仲間たちが一網打尽に捕まってしまい、失敗した。それ以来、二重スパイの存在と、組織的な能力の低さが指摘されている。

 このような失敗にもかかわらず、アメリカの共和党内には「イラク国民会議」 などの反政府勢力を重用すべきだとの意見が強い。米議会の共和党は98年、イラク反政府勢力に約1億ドルを支援するという「イラク解放法」 (Iraq Liberation Act)を法制化したが、反政府勢力の力を疑問視したクリントン前大統領は、1億ドルのうち5%しか支出せずに任期を終えた。

 もしブッシュ新政権がイラク国民会議などに対するテコ入れを強め、その再決起がまた失敗することになれば、アメリカの威信はさらに落ち、フセインの力が強まることが予測される。

▼フセインにしか希望を託せないアラブの悲劇

 サダムフセイン大統領は、反対派を容赦なく大量殺害するため、残虐な人であるとされる。にもかかわらず、アラブ諸国内にフセイン支持者が意外に多いのは「アラブの統一」や「イスラムの団結」をはっきり主張している数少ない指導者であるからだ。それが単なるスローガンにすぎないとしても、他にそれを主張する指導者がいなくなった結果、フセインが目立つようになった。(他に似たようなことを主張している人物は、リビアのカダフィぐらいだ)

 60年代にはエジプトのナセル大統領がアラブ民族主義の盟主だったが、その後のエジプトの権力者は、荷が重いアラブ主義を捨て、アメリカやイスラエルと仲良くする方向に転換し、現在の指導者であるムバラク大統領は国内のアラブ民族主義に対して冷ややかだ。

 去年死去したシリアのアサド大統領もアラブ民族主義者であったが、晩年はその面では大した動きをせず、後継者となった息子のアサドも、国内をまとめるのに精一杯で、アラブ全体のことにはまだ首を突っ込めないし、今後突っ込むかどうかも分からない。そもそも若い世代には、アラブの統一など重視していない人も多いが、アラブ諸国が団結した方が、アメリカやイスラエルときちんと渡り合えるようになるのも確かである。

 アラブ地域は20世紀初頭まで、オスマントルコ帝国に属していた。オスマン帝国が崩壊し始めたとき、中東に支配力を広げたイギリスとフランスは、アラブ人の指導者たちに対して「アラブの国を建国させてあげるから、一緒にオスマン帝国を倒そう」と持ちかけた。アラブの人々はその甘言に乗ってオスマン滅亡に協力したが、その後フランスとイギリスはアラブ地域を分割し、一つの国になるはずだった場所にシリア、レバノン、イラク、ヨルダンなどを作ってしまい、しかもユダヤ人にはイスラエルの建国を許した。

 その後、シリアとエジプトが統一してアラブ連合国家を作ろうとするなど、アラブ諸国を統一する試みは何度かあったが、いずれも指導者間の対立によって失敗している。いったんバラバラに独立したアラブ諸国がその後再統一できないのは、個人的な野心ばかり追う指導者が多いというアラブ人自身の問題が最大の理由となっている。

 ユダヤ人などは、イスラエル国内でいくら政治的に分裂していても、アラブ人と対決するときの団結力は非常に強い。それに比べ、イスラエルとの何回かの戦争でアラブ諸国が見せたのは、軍隊の足並みの乱れと、自国の利益だけを追求してイスラエルと裏取引してしまう指導者の姿であった。

 サダムフセイン大統領も、他のアラブの指導者と同様に「アラブの団結」を個人的な権力維持のためにしか使っていない。彼はイランと戦争していた時代には、同じイスラム教徒の同胞であるイランではなく、アメリカの忠実な同盟国であった。そんな彼にしか「アラブ統一」の夢を託せないところに、アラブの人々の悲劇があるといえる。



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