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パキスタンの不遇と野心(2)

2001年10月10日  田中 宇

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 10月8日、アメリカ軍のアフガニスタン空爆を映し出すテレビ画面に世界中の目が釘付けになっている時、アフガニスタン国境から200キロ離れたパキスタンの首都イスラマバードでは、テレビに映らない、しかしアメリカにとっては空爆そのものが成功するかどうかより重要かもしれないと思われる、もう一つの戦いが進行していた。

 パキスタンの最高権力者であるムシャラフ将軍は、1999年10月のクーデターで権力を握った人だが、クーデターを成功できたのは、軍の主流派の将軍たちの助力があったからだった。そのため、ムシャラフは最高権力者となったものの、軍の主流派の3人の大将たちの中から反対意見が出た政策は、実行することができなかった。

 3人の将軍が拒否権を持つ状態は、クーデター直後からムシャラフそしてアメリカにとって大きな問題となった。3人の将軍はいずれも、国内のイスラム原理主義組織を強く支援し、アフガニスタンのタリバン政権や、インドの統治下で分離独立闘争を続けているカシミールのイスラムゲリラ組織にも協力していたからだった。

 10月8日深夜、アメリカがアフガン空爆を開始したとき、3人の将軍たちはムシャラフに対して「アメリカは約束を破った」と非難し始めた。アメリカからの事前通告では、米軍の攻撃はオサマ・ビン・ラディンを「隠れ家」から追い出すことだけが目的だとされていたのに、実際の攻撃対象には、カンダハルにあるタリバンの最高指導者オマル師の自宅など、タリバンの関連施設がいくつか含まれていた。3人の将軍はそれに反発し、アメリカとの友好関係を重視するムシャラフを非難した。

 このままでは、3人の将軍が結束してムシャラフ政権を倒すクーデターに動き出す可能性があった。そこでムシャラフは先手を打ち、深夜に軍の上層部を集めて緊急会合を開き、その席上で3人を解任する人事を発表した。3人のうち、ムザファ・オスマニ陸軍参謀長と、マフムード・アーメド統合情報局長は退役させられ、モハマド・カーン・ラホール軍区司令官は、統合参謀本部議長という高位だが実質的な権力の伴わない名誉職に追いやられた。

 パキスタン軍には、自分より下位の者が自分のポジションの後継者になったら、それを機に退役するという慣習があり、ムシャラフはその慣習を使い「通常の軍内の人事異動」として2人を退役させた。それまで3人がいた役職には、いずれもムシャラフに忠実な将軍たちが後任となった。自国がアメリカから強い圧力を受けている苦境を逆手にとって、ムシャラフは懸案だった権力強化に成功したのだった。

▼カシミールの現状容認は非国民

 パキスタン軍内でイスラム原理主義を支持する勢力が強いのは、パキスタンがインドやロシア、イランなどの周辺の敵国に負けないようにするために、イスラム原理主義の力を借りることが必要だったからだ。

 9月11日のアメリカの大規模テロ事件が起きてアフガニスタンが急に問題の中心となるまで、パキスタン軍にとって最も重要な地域はアフガニスタンではなく、インドと一触即発の状態で対決しているカシミール地方だった。カシミール住民の8割はイスラム教徒であるため、パキスタンは「民主主義の原則で考えれば、カシミールはパキスタン領か、パキスタンと密接な関係を持つ地域になるはずなのに、インドが軍事力で不当占領している」と主張している。

 カシミールのインド側では1989年ごろから、イスラム原理主義組織によるゲリラ戦やテロ活動が活発化したが、パキスタン軍はこれを後方支援し、ゲリラに軍事訓練をほどこしたりした。こうした活動はパキスタンでは「愛国的」とされ、インドがカシミールの大半を占領し続ける現状を容認する人々は「非国民」呼ばわりされることが多い。

 ムシャラフ政権が誕生した99年のクーデターは、それまで首相だったシャリフ氏が、アメリカが仲介したインドとの外交交渉の中で、インドがカシミールの大半を占領する現状を容認する方向に譲歩してしまったことが背景にあった。

▼アフガンの密輸黙認も軍事戦略

 そのころまでアメリカのクリントン政権は、世界各地で地域紛争の和平交渉を仲介し、交渉で譲歩する国にはIMFなどから巨額の経済支援をさせ、和平が成就して国が安定したらアメリカ企業が進出して儲けさせるという経済主導の世界戦略を採っていた。パレスチナ紛争の終結を目指した「オスロ合意」がその代表だったが、クリントンはインドとパキスタンに対しても「カシミールでの対立をやめたら、98年に両国が核実験して以来の経済制裁を解除し、君たち両国への経済支援をしよう」と持ちかけていた。

 破産状態だったパキスタンを建て直せず、腐敗体質からもなかなか抜け出せなかったシャリフ首相は、クリントンの提案に乗り、軍の反対を押し切ってインドとの交渉を重ね、軍によるイスラム原理主義勢力への支援を止めさせようとした。

 これは普通に考えると「シャリフの方が平和主義者で正しい」となるのだが、シャリフ自身に対して不正蓄財など腐敗の指摘が絶えなかったため、パキスタンの人々は「シャリフはアメリカから金をもらって私腹を肥やすためにカシミールを売り渡そうとしている」と考えた。軍は、この世論を背景に、シャリフが軍の最高司令官だったムシャラフを解任しようとしたときに、逆にクーデターでシャリフを追い出した。

 こうした経緯があるため、軍事政権であるムシャラフ政権の主流派には、イスラム原理主義を支持する人が多い。軍はまた、パキスタンにとってロシアやイランとの間の緩衝国になっているアフガニスタンでも、パキスタンの息のかかった政権を作ることに腐心してきた。その最新のものがタリバンで、パキスタン軍は政府の統合情報局を通じてタリバンを軍事的、経済的に支援してきた。

 アフガニスタンとパキスタンの国境では密輸が活発だが、それを取り締まらず、密輸であげた利益がタリバンやオサマ・ビン・ラディンの収入になるようにしていたのも、パキスタン軍の戦略だった。

 アフガニスタンの密輸は、アフガニスタンが港のない内陸国であるため、パキスタンを経由してアフガニスタンにモノが輸入される場合、パキスタン政府は関税をかけないという以前からの取り決めを悪用して行われて、いったんアフガニスタンに正規に輸入された商品を、裏道の国境を抜けてパキスタンに戻し、パキスタン市場で売ることで脱税している。

 関税は、パキスタン企業が輸入品に負けないようにかけているものだから、軍が密輸を容認してきたことは、自国の経済を痛めつける行為だったのだが、軍にとっては経済より軍事的な安全保障の方が大事なのだった。

(アフガンの密輸については「難民都市ペシャワール」

▼ムシャラフの手腕

 こうした状況は、9月11日の大規模テロ事件を機に劇的に変化した。今やタリバンを支援し続ければ、パキスタンの国家そのものがアメリカに潰されかねない状態となり、ムシャラフはタリバンを支持する軍内の勢力を切った。

 今回の事件後の対応を見ていて、ムシャラフはかなりの政治的な手腕を持っていると感じた。たとえば、パキスタンにおけるイスラム原理主義をはっきり支持している人々は、過去の選挙結果などから考えると、人数的には全人口の5−15%程度だと思われるが、ムシャラフの発言からは、まるでパキスタン国民の半分ぐらいがイスラム原理主義者であるかのような状況が感じられる。

 これは、パキスタンのイスラム原理主義組織のマスコミ対策が上手であることが一因なのだが、それとは別に、ムシャラフはおそらくイスラム原理主義者を多く見せることによって、自分に圧力をかけるアメリカ政府に対して「私にあまり無理な注文をなさると、私の政権が倒れてイスラム原理主義者の政権ができてしまいますよ」と言えるような態勢を作っているのだろう。その効果はあったようで、ブッシュ大統領は9月末に突然パキスタンに対する経済制裁を解除した。解除はインドと同時だったが、その目的はパキスタンのムシャラフを懐柔するためだったと報じられている。

 とはいえ、これでムシャラフ政権が安泰になったわけではない。あの大事件後、アメリカはなるべく多くの国々を味方につけようと動いた結果、今やインドとパキスタンの両方がアメリカの同盟国として認知されるようになった。

 これはまさに「呉越同舟」の状態だが、インドは「パキスタンはタリバン支援こそ止めたが、まだカシミールのイスラム武装組織を支援し続けている。だからパキスタンは、いまだにテロリスト支援国家であり、国際社会の敵である」と非難し、アメリカに対し、パキスタンに圧力をかけてカシミールのテロ組織支援を止めさせるよう求めている。

 インドは9月11日から数日後には、インド政府の情報機関が集めたテロリストに関する報告書をアメリカに渡しているが、この内容も、いかにパキスタンがイスラムテロ組織の拡大に協力しているかをアメリカ側に読んでもらうのが真の目的だったに違いない。

アメリカ政府は、今のところカシミール問題に触れないようにしているが、今後はどうなるか分からない。アメリカがカシミールでパキスタンに圧力をかけ、ムシャラフがこれに応じざるを得なくなれば、自分が2年前にクーデターで追い出した前首相のシャリフと同じ轍を踏むことになりかねない。

(続く)


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