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テロの証拠を示せないアメリカ

2001年10月27日   田中 宇

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▼ずっと前から予測されていた大規模テロ

 9月11日にニューヨークとワシントンを襲った同時多発テロは、考えてみると不可解な事件だ。米当局は何年も前から、この手の事件がいつ起きても不思議ではないと予測していたからである。

 私は昨夏から今夏まで、妻が特別研究員になった関係でハーバード大学に滞在していた。そこでは行政大学院などで、毎週のように国際情勢をめぐる講演会やセミナーが開かれており、国際テロリズムをテーマにした会合も何回かあった。そして毎回のように「オサマ・ビンラディン」や「アルカイダ」「生物兵器」などの脅威が語られていた。

 たとえば2000年11月初旬に講演した元CIA長官のジェームズ・ウールジーは、アメリカを標的にしたイスラム原理主義テロの危険が高まっているにもかかわらずアメリカに危機感がない状態は、第2次大戦前の1920年代に似ていると語っていた。1920年代とは、日本の軍国主義やナチスドイツが勢力を伸ばしていたのに、アメリカが海外のことに関心を持たない時期に入っていた結果、日独の勢力拡大を黙認して第2次大戦につながっていった時代である。

 ウールジーはまた「アメリカは国内の社会が多様なため、敵が誰なのかということが明確でない場合、国力を統合して戦うことが上手にできない」と指摘し、このセミナーの1ヶ月前にイエメンで起きた米軍艦爆破テロ事件でも黒幕とされたビンラディンの名前を挙げながら、テロ組織との戦いに勝つのは簡単ではないとする悲観論を展開した。そして「わが国は石油を中東に依存しすぎており中東の有事に弱い」「湾岸戦争以降、わが国が中東への関与を強めた反動で、中東で反米感情が高まっている」などという警告も発した。

 ウールジーの発言はいくつもの点で10カ月後の同時多発テロ事件を予測している上、事件の背景まで先取りして説明している。事件が発生直後の段階で真珠湾攻撃に例えられたのは、事件前のアメリカの状況が「第2次大戦前に似ている」ということに呼応しているし、ブッシュ大統領がタリバンを敵として名指しして「戦争」を開始した理由は、ウールジーの「敵が明確でないとアメリカは結束できない」という言葉で解説されている。

 とはいえ、ウールジーの講演を聞いたとき、私は「またこの手のプロパガンダか」と少々うんざりした。というのは、当時すでにアメリカのマスコミでは、ビンラディンやイスラム原理主義テロの危険性についてたくさんの記事が出ていたからだった。

 1993年の1回目の世界貿易センタービル爆破や、98年のケニア・タンザニア米大使館爆破、2000年のイエメンでの米軍艦爆破など、一連のテロ事件は「ビンラディンらアルカイダによって計画・実行された」といろいろなメディアで断定的に書かれているにもかかわらず、それを裏づける証拠が薄かった。

 そのため「むしろCIAが予算拡大のためにテロリストの危険を煽っているのではないか」とさえ感じられた。ウールジーの懸念はプロパガンダなどではなかったことが10カ月後に明らかになったのだが、その前の段階では私のように考えていた人がけっこういたのではないかと思っている。

▼証拠を示せなかった米当局

 前々から危険が分かっており、マスコミまで動員して危険性を宣伝していたのに、なぜCIAなど米当局は9月11日の大規模テロ事件を防げなかったのだろうか。その主因は、米当局が「証拠」を示せなかった(もしくは故意に示さなかった)ことにあると思われる。

 アメリカとイスラム原理主義テロ組織との戦いは1992年ごろから続いており、連続性が感じられるという点で、同一の組織が起こしたと考える米当局の見方は当たっていると思われる。最初のテロは92年にサウジアラビアの南にあるイエメンで、米軍が常宿としているホテルが爆破された事件で、その後95年から96年にかけてはサウジアラビアの米軍施設が相次いで爆破された。

 アラビア半島の米軍拠点に対するテロと並行して、アメリカ本土でも93年に世界貿易センタービルに対する爆破テロが行われ、99年末には「ミレニアム」のお祝いに湧くアメリカ各地で同時多発テロを行う計画が実行直前の検挙で回避された。

 もう一つの流れは「飛行機」に対するテロで、94年に日本を含む東アジアを飛行中のアメリカの旅客機を同時に爆破する計画が、犯人が直前にミスしたことからマニラで検挙され、回避されている。(この事件の容疑者の一人は93年の世界貿易センタービル爆破テロの容疑者でもある)

 アフガニスタンがテロの拠点として使われていることも前からの特徴だ。たとえば93年に世界貿易センタービルを起こし、その後マニラで航空機テロを仕掛けた人物は、事件を起こすたびにアフガン・パキスタン国境の町ペシャワールに逃避していた。

 これらの犯行の意味を探ると、いずれもアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンがインタビューや組織の宣伝ビデオで語っていることと一致する。ビンラディンが「アラビア半島からアメリカを追い出す」と言い続けていることは、アラビア半島の米軍施設への連続テロと符合する。

 またビンラディンは1970年代にアフガニスタンを侵略したロシア軍と戦うイスラムゲリラを支援したが、93年にはアメリカが介入したソマリアに内戦にアフガニスタンの対ソ戦に参加したアラブ人の元ゲリラたちが結集するよう呼びかけ、ソ連がアフガニスタンにはまって崩壊したように、ソマリアをアメリカにとっての「第2のベトナム」にしようと運動を展開していた。

 これらの状況証拠から米当局は「92年以降の一連の反米爆破テロ事件を起こしたのはビンラディンの組織である」と断定している。98年のケニア・タンザニア米大使館爆破テロの直後には、ビンラディンが亡命しているアフガニスタンの施設と、ビンラディンが金を出していたスーダンの薬品工場をミサイル攻撃するところまで踏み切っている。

 ところが、こうした状況証拠を越える物証となると、非常に乏しい。米当局は一連の事件の犯人像に結びつく物証をほとんど公開できないまま今日に至っている。98年の米大使館爆破テロの裁判がニューヨークの連邦地裁で行われ、今年5月に出た判決で実行犯や資金調達係など4人が有罪とされたが、この裁判の法廷資料の多くも非公開とされ、公開されている証拠の多くは関係者の証言であり、信憑性に疑いのあるものも含まれている。

 米大使館爆破テロの直後の報復攻撃では、アメリカは証拠を用意できなかったどころか「ビンラディンの生物兵器工場」だとしてミサイルを撃ちこんだスーダンの薬品工場が、その後民生品の抗生物質を作る薬品工場だったことが判明し、米当局もそれを認めざるを得ない状況に追い込まれた。

 ブッシュ大統領は、9月11日にテロ組織との戦争開始を宣言したが、実はこの戦争は宣戦布告などないまま、遅くとも米大使館爆破テロが起きた98年8月には始まっていたことになる。この戦争は9月11日を境に第二ラウンドに入ったといえるが、第一ラウンドでは、犯人を特定する証拠を明示できなかったアメリカ側の負けであった。

「アメリカ自由主義は終わるのか」に続く)



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