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タリバン残党とインド・パキスタン戦争

2002年6月10日   田中 宇

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 4月30日、パキスタンで国民投票が行われた。ムシャラフ大統領の今後5年間の続投を了承するかどうかを問うものだったが、有権者が「はい」「いいえ」で選択させられた投票の設問は「経済発展を実現し、民主主義を回復し、過激派を一掃し、(パキスタン建国の父である)ジンナーの理想を実現するために、ムシャラフに5年の任期を与えることを承認しますか」というものだった。

 たとえムシャラフのことを嫌いでも、経済発展や民主主義を望まない人はほとんどいないだろう。質問の組み方が「いいえ」と答えにくいようになっていた。しかも「はい」と「いいえ」とで別々の投票箱に入れる投票形式になっており、「はい」の方の投票箱は緑色に塗られていた。緑はイスラム教を象徴する色で、パキスタン国旗の地の色でもある。「いいえ」の方に投票する人は、他の有権者や選挙を監督する人々が見ている前で、愛国的でない方の投票箱に向かって歩いていかねばならなかった。投票の結果は97・5%の得票率でムシャラフの5年続投が支持された。

 人々は投票所に行かないという方法でこの選挙に抵抗した。だが投票日は平日で、役所や大企業のビル内にも特設投票所が設けられ、従業員や職員には全員投票に行ったかどうか上の方から確認が入った。政府は投票率を71%と発表したが、野党は「政府発表は間違いで、実際の投票率は5%だ」と主張した。選挙のやり方に対し、アメリカなどのマスコミはこぞって批判調の記事を出した。

▼投票の背後に米軍の攻撃開始

 ところが、この投票が行われた背景にはアメリカの存在があった。投票が行われるのと前後して、アメリカ軍がパキスタン領内でタリバンとアルカイダの残党を捜索・攻撃する作戦が始まったのである。米軍が自国内で戦闘を始めたことに対し、パキスタンのイスラム聖職者の多くは、アメリカに対する非難を強め、米軍の行動を許したムシャラフに対する敵視も強くなった。

 タリバン、アルカイダなどイスラム過激派の勢力とムシャラフの関係は、昨年10月に米軍がアフガニスタン攻撃を開始して以来、大きく変化している。ムシャラフが率いてきたパキスタン軍は、もともとパキスタンと隣国アフガニスタンのイスラム過激派勢力と親しく、互いに深くつながっていた。タリバンを作ったのはパキスタン軍の諜報機関である統合情報局(ISI)で、パキスタンはタリバンを通じてアフガニスタンを間接支配していた。

 ところが昨年911事件が起こり、米軍がタリバンを攻撃するに際して、アメリカはムシャラフに「タリバンとの縁を切らない限り敵とみなす」と迫り、結局ムシャラフは、ISI長官らを更迭し、パキスタン軍内でタリバンとつながっている部分を切り捨てた。(「パキスタンの不遇と野心(2)」参照)

 その後、米軍のアフガン攻撃が始まったが、タリバンは米軍と正面切って戦うことを避け、米軍に支援された北部同盟軍が首都カブールに迫った段階で、戦闘をせずに総退却し、タリバンという組織そのものを解体し、タリバンのメンバーたちは、もともと住んでいたアフガン・パキスタン国境の山岳地帯に入り込んだ。

 この国境の山岳地帯は、住民が勇猛果敢なパシュトン人であることなどから、外からの軍事侵攻が難しく、パキスタン一帯がイギリスの植民地だった時代から、政府当局の支配権の及ばない地域で、現在もパキスタン国家の直接の行政権、警察権、司法権などが部分的にしか及ばない「部族地域」で、地域住民であるパシュトン人の各氏族が自治を行っている。

 アラブのアルカイダ系の人々を含むタリバンの元メンバーで生き残った人々は、ムシャラフに切られた元ISIの勢力と連絡を取りつつ、部族地域で昨年の冬を過ごしたと思われるが、春の到来とともに米軍はこの地域の元タリバン勢力を一掃するという名目で、4月末から部族地域のイスラム神学校などを襲撃し始めた。

 昨年10月に政府内でイスラム過激派を支持していた勢力を切り捨てて以来、イスラム過激派はムシャラフを敵視するようになっており、米軍がパキスタン国内で攻撃を開始するには、ムシャラフの立場を強化する必要があった。ムシャラフの弱点は、1999年に軍事クーデターで政権をとったため、民主的に国民の信任を得ていないということだった。そのため、米軍の攻撃開始前に、かたちだけでも国民投票をやった方が良いということになったのだと思われる。

▼イスラム過激派の反撃と印パ対立

 米軍がパキスタン国内を攻撃し始める前に、不正とはいえ国民投票をやっておいて良かったということは、その後すぐに明らかになった。イスラム過激派の側からムシャラフに対する反撃が始まったからだ。5月9日には、カラチで爆弾テロ事件があり、フランス人ら12人が死亡した。5月14日にはカシミール地方でイスラム過激派の武装集団がインド軍の兵士と家族らが住む住宅街に突入して銃を乱射する自爆テロがあり、30人以上が死んだ。

 カラチの爆破事件はパキスタンと欧米諸国との関係を、カシミールの乱射事件はインドとの関係をそれぞれ悪化させ、ムシャラフの立場を弱めることを狙ったと思われる。カシミールの事件の後、インドとの関係は極度に悪化した。

 インドはパキスタンの3倍の軍事力を持っている。インド軍がパキスタンに本気で進軍してきたら、パキスタンは国家そのものがなくなってしまうかもしれない。そのためムシャラフ政権は「インドが攻めてくるなら、核兵器を使うことも辞さない」と表明し、5月25日にはインド全域に届くミサイルの試射実験を行った。印パ間は一触即発の状態となった。

(続く)



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