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サウジアラビアとアメリカ(上)

2002年11月19日   田中 宇

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 サウジアラビアの砂漠の中に「エメラルド・シティ」という町がある。イラク国境から南へ150キロ、クウェート市から南西に300キロほど離れた、北緯27度57分、東経45度33分にある。

 この町の名前は、町の中心にあるモスクの屋根が緑色で、宝石のエメラルドのような色をしていることからつけられたとされている。だが、このロマンチックな名前は町の正式名称ではなく、愛称にすぎない。正式名称は「ハリド国王軍事都市」(King Khalid Military City)という。「軍事都市」という名前から想像されるように、ふつうの町ではなく、65000人の要員を擁することができる巨大な軍事基地である。(ハリド国王は、1982年に亡くなったサウジアラビアの4代目の国王)(関連記事

 しかも、エメラルド・シティという愛称にも裏がある。この町の名前はもともと、アメリカで書かれた物語「オズの魔法使い」に出てくる。日本語訳では「エメラルドの都」となっているこの町には、魔法使いが住んでおり、主人公のドロシーが、なかなか見つからないエメラルド・シティを探して歩く旅が、オズの魔法使いのストーリーとなっている。サウジアラビア政府は、自国内に米軍基地があることを国民に知られたくないため、ハリド国王軍事都市の存在を秘密にし続けた。そうしたサウジ政府の態度を皮肉って、探してもなかなか見つからない秘密の町だという意味を込めて「エメラルド・シティ」と米軍関係者が呼ぶようになったという。(関連記事

 この軍事都市の建設は1974年に始まり、1986年に完成した。世界最大規模のコンクリート成形工場が作られ、それを使って建物が次々と作られるとともに、ペルシャ湾岸に作られた専用の港から、アメリカ製の装備が搬入された。その間に使われた建設費は、計算の仕方によってばらつきはあるが、最も多い試算結果では、総額で200億ドル(2兆円強)かかったとされている。

 そんな巨額の費用が投入されたのはなぜか。その理由を考える際に重要と思われるのは、この基地の建設が始まった1974年は、石油危機が起きてサウジの石油収入が急増した翌年であるということだ。急激に増えたサウジアラビアの石油収入の一部が、基地の建設や兵器の購入というかたちでアメリカに還流していったが、その一つとしてエメラルド・シティの建設があった。石油危機より前、サウジアラビアの石油収入は、毎年40億ドル未満だったが、石油危機後は、これが毎年200億−300億ドルになった。

▼自国軍を信用できないサウジ王室

 石油の大消費国であるアメリカからサウジが得た石油収入の一部を、基地建設や武器調達かたちでアメリカに戻すやり方は、1960年代には、すでに確立していた。1950年代に始まった社会主義的なアラブ民族主義の運動が、サウジアラビアの王政を転覆しようとする動きを封じるため、サウジ政府は米軍に頼るようになった。

 中東では、1952−54年にエジプトで革命が起こって王政が転覆され、代わりにアラブ統一を目指す軍人出身のナセル大統領の政権ができた。1958年にはイラクの軍人たちが国王を殺害し、エジプト型の民族主義政権に転換した。1957年には、ヨルダンでソ連寄りの将校たちが王政を転覆しようとして失敗した。

 この間、サウジアラビアでも、1952年に油田労働者による労働運動が発生し、1955年にはサウジ軍内でエジプト革命や社会主義を支持する将校たちによるクーデター未遂事件が起きた。こうした中で、王室は自国の軍隊に対する警戒感を強め、代わりに米軍が王室を守る体制が強化された。当時は米ソ冷戦が激化した時期だったので、アメリカとしても、中東諸国が社会主義になってしまわないよう、テコ入れする必要があった。

 サウジ王室は、自国軍の代わりに米軍に守ってもらう態勢を作ったが、それを広くサウジ国民が知ってしまうのはまずかった。サウジアラビアにはイスラム教の中心地メッカがあり、サウジ王室のサウド家は、メッカを守る者というアイデンティティを誇り、イスラム世界の盟主としてふるまっていた。ところが、そのサウド家が自国の軍隊を信用せず、代わりに異教徒(キリスト教徒)の国アメリカの軍隊に守ってもらっている。これは大問題である。

 サウド家は1932年にサウジアラビアを統一・建国したが、そのずっと以前の18世紀から、厳格なイスラム教の改革運動である「ワッハーブ派」と合体し、この宗教運動の力を借りてサウジアラビアを統一した。このため建国後も、王室の支持者には厳格なイスラム教を信奉する人々が多い。

 しかも1950−60年代には、エジプトのナセル型社会主義運動に対抗し、サウジ政府はイスラム主義運動を内外で扇動した。のちにアメリカから「イスラム原理主義」と呼ばれるようになったイスラム主義運動(イスラム復興運動)にたずさわる人々からみれば「自国の防衛を米軍に任せるような王室は、背教者だから倒すべきだ」ということになる。王室は、アメリカとの親密な関係をなるべく隠すようにしたが、サウジ国内では常に反王室の考え方がくすぶるようになった。(サウジアラビアでは、政府と王室は一体性が強い。政府イコール王室と考えることができる)

▼石油価格を安定させて恩を売る

 石油危機は、サウジアラビアの石油収入が急増させただけでなく、国際社会に対するサウジアラビアの影響力も増加させることになった。

 サウジアラビアの石油は、地下から採掘するのが容易で、掘り出す原価が1バレルあたり1ドルほどしかかからない。世界的な石油採掘原価の平均は5−10ドルとされ、ロシアや北海など、採掘原価が比較的高い油田は、石油相場が下がって1バレル10ドル前後になると赤字になるが、サウジの石油は石油価格の下落にも十分耐えられる。しかもサウジは産油量が多く、採掘できる最大量よりもかなり低い水準で採掘しているため、生産余力が大きい。他の産油国が束になって減産して石油相場をつり上げようとしても、サウジ当局が油井のバルブをいくつか開けるだけで、つり上げ工作は失敗する。

 このような特性から、サウジは石油価格を自由に動かすことができる立場にある。サウジ政府は、こうした自国の影響力の強さを使い、アメリカの政治に食い込みをかけた。

 石油危機のときは、石油相場をつり上げることで、イスラエルを支援するアメリカなどに圧力をかけたサウジだったが、その後石油価格の高止まりが常態となると、サウジはアメリカの敵になることを避け、むしろ逆に石油価格を安定させることで、アメリカに恩を売るようになった。石油危機の際、石油価格の高騰を演出したOPECは、その後、サウジが他の産油国に働きかけて石油価格を安定させるための組織となった。

 サウジは、冒頭で紹介したハリド国王軍事都市のほか、メッカの近くや、南のイエメン国境近くなどにも新しい基地を作ることにして、アメリカから高価な設備を気前良く買い込み、アメリカの軍需産業を喜ばせた。また、後に大統領を2人輩出したブッシュ家と、サウド家やビンラディン家との家族づきあいも、1980年前後から深まった。石油価格の高止まりは、利益が増えるので欧米の石油会社にとっても好都合だった。石油会社は、儲けの一部を政治資金に回し、オイルダラーが米政界を潤すようになると、サウジとアメリカの関係はますます親密になった。(「テロをわざと防がなかった大統領」参照)

 石油危機後、サウジ王室がアメリカに頼る度合いを強め、アメリカと一心同体の関係を築いていった背景には、1970年代にイスラム主義運動が中東で台頭したことが関係していると思われる。

 これは、1950−60年代に起きた、エジプトを中心とするアラブ民族主義(ナセル主義)が失敗したため、代わりに勃興してきた中東統一の動きで、1979年にイランでイスラム革命が起き、その年末にはサウジでも、メッカの聖地の中心である大モスクをワッハーブ派系の武装集団が占拠して国王の退位を求め、サウジ軍が強行突入して多くの死者を出す事件が起きた。窮したサウジ王室は、国防をアメリカに頼りつつも、それを国民の目から隠す状態を続けざるを得なかった。

 その一方でこの時期には、サウジ国内のイスラム主義者たちにガス抜きさせるための、格好の行き先が生まれてきた。それは、1979年のソ連軍の侵攻に対して「ムジャヘディン」と呼ばれる地元のイスラム聖戦士たちがゲリラ戦を挑むようになったアフガニスタンだった。

 この戦争に対し、アメリカはソ連を封じ込めるという冷戦の観点から、パキスタンを通じてムジャヘディンを支援した。それにつき合うかたちで、サウジアラビアもムジャヘディンに資金援助を行い、イスラムの大義を守るためにサウジ王家も努力しているという姿を国民に見せた。サウジ国内では、血の気の多すぎるイスラム主義の若者たちをアフガニスタンに行かせてしまうための「聖戦士募集」の事務所があちこちに作られた。

 サウジとアフガンをつなぐこうした事業の中心にいたのが、まだ20代だったオサマ・ビンラディンだったとされている。ビンラディン家は、サウジ政府の公共事業を引き受けて大きくなったサウジ最大の建設会社「サウジ・ビンラディングループ」を中核とする実業家一族で、米軍基地の多くも、サウジ側の業者としてビンラディングループが関わっている。オサマを含むビンラディン一族と、サウド王家の人々とは、家族づきあいも親密だった。

 サウド王家は、イスラム主義者に対するガス抜きと、アメリカの冷戦への協力、そしてアフガニスタンやパキスタンのイスラム教徒に対して宗教的な影響力を増やすという多角的な戦略として、アフガンの聖戦に協力した。そして、その現場監督として、王家と親しいビンラディン家から若いオサマを派遣したのだと考えることができる。

 オサマは湾岸戦争後、自国の王室が米軍の駐留を許し、聖なる祖国に異教徒の軍隊を引き入れて汚したことを怒り、反王室・反米の態度を鮮明にしたとされているが、この話は理に合わない。ビンラディン家は家業として、湾岸戦争のはるか前からサウジ国内でいくつもの米軍基地の建設を手がけてきており、それを息子のオサマが知らなかったはずはないからである。

▼都合よく起きた湾岸戦争

 その後、サウジとアメリカの関係は、1980年代末の一連の出来事によって、変質を余儀なくされた。その一つは冷戦終結で、これによって、サウジ王室が「共産主義の脅威」から体制を守るためにアメリカに頼る必要がなくなった。同時に、イスラム革命によって一時は強硬なイスラム主義を主張したイランは、8年間のイラン・イラク戦争が1988年に終わるころには、かなり疲弊していた。アフガニスタンの「聖戦」も、88年のソ連軍撤退で終結した。この記事の冒頭で紹介したハリド国王軍事都市の建設も、1986年に終わった。

 アメリカにとって、サウジに支払う石油代金を軍備の売却や米軍の傭兵的な活動によって回収する体制に、綻びが目立つようになった。そんなとき、再びサウジからアメリカへの軍事面の支払いを急増させたのが、1990年のイラクのクウェート侵攻とその後の湾岸戦争だった。イラク軍がサウジアラビアにも攻め込んでくるのではないか、という恐怖感は、サウジ王家の人々を震え上がらせ、アメリカの軍事力にすがりつく体制をよみがえらせた。

 1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、イラクの侵略行為を許さないアメリカがクウェートの依頼を受けて反撃した、というのが湾岸戦争の公式な筋書きである。ところが実際には、クウェートがイラクを挑発し、アメリカは中立的な立場を表明したため、かねてからクウェートの独立を認めていなかったイラクのサダム・フセイン大統領がクウェート侵攻を実行したのであり、フセインはアメリカとクウェートの策略にはめられた部分が大きい。

 イラン・イラク戦争の期間中、クウェートはサウジとともにイラクに軍資金を貸していた。戦争が終わった後、クウェートは貸した金をすぐに返せとフセインに要求した。フセインは「自分はイランのイスラム革命がクウェートなどアラブ諸国に広がらないよう、アラブを代表してイランと戦ったのであり、クウェートもそれを望んでいたはずだ」として、戦費は借りたものではなくもらったものだと反論、支払いを断った。

 これに対して、クウェートはイラクとの国境地帯にあるルメイラ油田で、油井をイラク側にのばして採油を始めた。金を出さないなら石油で返してもらう、ということだった。イラクは盗掘されたとして非難し、軍をクウェート国境に結集させた。

 イラクの外相はクウェート駐在のアメリカ大使と会い、イラクがクウェートに侵攻するかもしれないと伝えたところ、大使は「アメリカはアラブ諸国間の内紛には関知しない」と答えた。イラクが侵攻してもアメリカは傍観する、という意味だと受け取った。その後、交渉の中でクウェート政府代表が、フセインが私生児であることを揶揄する発言を行ったため、激怒したフセインは翌日クウェートに侵攻した。

 イラク軍は侵攻前にクウェート国境に大軍を結集させたが、この記事の冒頭で紹介した米軍の「ハリド国王軍事都市」は、そこから200キロほどしか離れていない。当然、イラク軍の動きは、アメリカ側に分かっていたはずだ。しかも、ロシアの軍事衛星がイラク軍の動きをキャッチし、これをアメリカに伝えたが、米軍は何の動きも見せなかった。クウェートの王室と政府の上層部は、イラク軍の侵攻直前に海外に避難しており、侵攻時にクウェートに残っていたのは、大半が他のアラブ諸国などからの外国人労働者たちだった。

▼湾岸戦争後さらに拡大した米軍

 湾岸戦争の後、サウジでは再びアメリカによる軍事基地の建設が盛んになった。米軍は、湾岸戦争が始まる直前、首都リヤドから南へ100キロほど行った砂漠の中で「スルタン王子空軍基地」(Prince Sultan Air Base)の建設を開始した。(スルタン王子は現サウジ国防大臣)(関連記事

 1996年にペルシャ湾岸の町ダーランで米軍宿舎がイスラム原理主義テロと報じられている爆破事件の被害にあった後、米軍は、サウジ人が簡単に行き来できる都市部に米軍施設を置いていた従来の方策を見直し、サウジにおける米軍の主力を、一般のサウジ人が近づけない砂漠の中にあるスルタン基地に移した。

 この基地は1999年に完成したが、それを報じたアラブ寄りのオンライン新聞「アラビックニュース」の記事が興味深い。米軍主導で建設され、主に米軍が使っている基地なのに、記事にはサウジ空軍の話しか出ていない。サウジアラビアでは、米軍は今も所在不明の「エメラルドの都」に住んでいるのである。(関連記事

【続く】



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