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ロシア・ユダヤ人実業家の興亡

2004年3月9日   田中 宇

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 1990年代後半のロシアには、7人の大資本家がいた。ボリス・ベレゾフスキー、ウラジミル・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキー、ウラジミル・ポタニン、ミハイル・フリードマン、ウラジミル・ビノグラドフ、アレクサンダー・スモレンスキーの7人で、彼らは「オリガルヒ」と呼ばれてきた。

 オリガルヒは、最年長が1946年生まれのベレゾフスキーで、いずれも20−30歳代だった1980年代後半に、ソ連でペレストロイカの経済自由化が行われたときに個人でビジネスを開始した。

 1987年にソ連で銀行の設立が自由化された際に相次いで金融業に進出し、1991年にソ連が崩壊した後、為替市場で通貨ルーブルの下落を利用した取引で儲け、経済システムが変わって財政難に陥った中央や地方の役所にその金を融資することで権力の中枢に食い込み、儲けを急拡大させた。(関連記事

 何人かのオリガルヒはテレビや新聞などのマスコミ企業を買収し、自分たちを敵視する政治家を攻撃するキャンペーンを展開できるようにした。オリガルヒは「7人合わせるとロシア経済の半分を支配している」とベレゾフスキーが豪語するまでになった。

 1996年の選挙でエリツィン大統領が再選を狙った際、オリガルヒたちはこぞってエリツィンに選挙資金を出した。「ショック療法」と呼ばれたエリツィンの経済改革は、従来のソ連型経済を一気に破壊するもので、経済活動の停止とインフレにより一般の人々の生活を苦しくする一方、オリガルヒら一部の金持ちをますます富ませるだけだったため、多くの人々は不満を持ち、共産党系の対立候補を支持する姿勢を見せた。

 ORT(ロシア公共テレビ)とTV6という2つのテレビ局を所有するベレゾフスキー、NTVを所有するグシンスキーらは、選挙戦の時期にエリツィンを支援するマスコミ戦略を展開し、エリツィンを続投させてやった。選挙後、政府に対するオリガルヒの影響力は強まり、人々はエリツィン政権を「7人の銀行家による統治」(semibankirshchina)と呼んだ。

▼オリガルヒ7人のうち5人がユダヤ人

 エリツィンの再選後、政府に対する支配力を確実にしようと考えたオリガルヒは、7人の中の一人を政権中枢の公職に就かせることにした。誰を送り込むかを相談した結果ポタニンが選ばれ、副首相になった。ワシントンポストの記事によると、その理由の一つは、ポタニンがユダヤ人ではないからだった。他のオリガルヒの多くはユダヤ人で、国民の間から「ユダヤ人が政府を支配している」と批判が出るおそれがあった。

 アメリカのユダヤ人が発行しているオンライン雑誌「フォワード」の記事などによると、7人のオリガルヒのうち、ベレゾフスキー、グシンスキー、ホドルコフスキー、フリードマン、スモレンスキーの5人がユダヤ人である。

「オリガルヒ」と呼ばれる人々は最有力の7人以外にもいるが、後発のオリガルヒにもユダヤ人は多い。たとえばベレゾフスキーの「弟子」で、昨年イギリスのサッカーチームであるチェルシーを買収して有名になったローマン・アブラモビッチがそうだ。エリツィン政権の民営化担当副首相からお手盛り行政で民営化した石油会社UESの社長になり、オリガルヒの仲間入りをしたアナトリー・チュバイスもユダヤ人である。(関連記事

 また、オリガルヒの後押しを受けて首相に就任したセルゲイ・キリエンコ(1998年4−8月)、エヴゲニー・プリマコフ(1998年9月−99年5月)や、地方行政を成功させて1997年に副首相に抜擢されたボリス・ネムツォフなど、政界にもユダヤ人が多い。

 前出の米のユダヤ系雑誌フォワード(97年4月号)は「ロシアを動かしている政治家や銀行家には、ユダヤ人が多すぎる」と懸念している。彼らの多くは自分たちの財力や権力を拡大することにだけ熱心で、ロシアの一般市民の生活が悪化するのを放置したため、このままでは19世紀末にロシアで起きたポグロム(ユダヤ人虐殺)がいずれ再来するのではないかという懸念である。(関連記事

▼事務用品をテコに不動産で儲けたグシンスキー

 ロシアのユダヤ人人口は、公式な統計では全人口の0・15%で、混血者を含めても人口の約3%である。こんなに少ないのに、ロシアを支配する7人の大富豪のうち5人がユダヤ人であるという]のは、どういう理由によるものなのだろうか。すぐに思いつくのは「欧米の大資本家の中にはユダヤ人が多い。彼らがロシアを支配する目的で同胞に金を出したのではないか」という見方である。

 だが現実の経緯を見ると、1997年後半に東南アジアの金融危機がモスクワに飛び火した後、欧米の資本はいっせいにロシアから逃避し、オリガルヒたちは欧米の金融機関に資金援助を頼んだが断られている。その結果オリガルヒは弱体化し、2000年に大統領に就任したプーチンとの戦いに敗れ、ベレゾフスキーとグシンスキーはイギリスに亡命し、ホドルコフスキーは昨年10月から獄中にいる。

 むしろオリガルヒが成功した過程を見ると、外からの資本の注入が少ない中でうまくビジネスを展開し、独力で如才なく儲けてきた経緯がうかがえる。たとえばグシンスキーはもともと舞台演出家だったが、ペレストロイカの開始後、事務用品を販売する個人企業を設立した。経済が自由化され、資本主義的な事務用品に対する需要が高まる中で事業は成功し、やがてモスクワ中心部のビルをビジネス向けに改装する仕事も請け負った。

 グシンスキーはそこからさらに事業を発展させ、ソ連崩壊後に欧米企業がこぞってモスクワに事務所を出す中、モスクワの中心部をビジネス街として再開発する不動産事業を政府から請け負い、不動産投資で急拡大した。グシンスキーの「モスト銀行」は、1994年にはモスクワ市の財政、住宅、社会福祉事業などの部門の会計を代行するようになり、その権威と評判を利用して、ロシア各地の都市や、豊かな石油収入があるアゼルバイジャン政府などからも公金の投融資を任されるようになった。(関連記事

▼チェチェン人マフィアを利用したベレゾフスキー

 一時は最強のオリガルヒだったベレゾフスキーの例を見ると、問題は外国勢とのつながりではなく、むしろロシア国内のマフィアとつながりや、詐欺や恐喝など犯罪的な行為によって利益を急拡大したことがうかがえる。

 ベレゾフスキーが大富豪になるための最初の100万ドルを作ったのは、ロシア最大の自動車メーカーであるアウトバス社とのビジネスによるものだった。もともと公営企業の運営を専門とする研究者ベレゾフスキーは、1988年に個人企業としてロゴバス社を設立し、アウトバス社の経営管理プログラムを受注した。それを機にアウトバス社に食い込んだロゴバス社は、アウトバス社の乗用車「ジグリ」を販売するディーラー業を初め、4年後にはロシア最大の自動車販売会社にまで急成長した。

 この急成長には裏があった。アメリカの雑誌フォーブスの記事によると、ベレゾフスキーは自動車の運送業にかかわるマフィアと関係をつけ、他のディーラーが受注販売しようとする自動車が運送中に傷がつくように仕向けた。また、マフィアは組織的にアウトバス社の工場から部品を盗み出し、ロゴバス社に安く売っていたという。

 経済自由化によってメーカーのアウトバス社自身も自由に自動車を売ることができるようになっていたが、ベレゾフスキーはアウトバス社の首脳陣に金をばらまき、逆らった場合は殺すと脅してメーカーが直接自動車を売れないようにしていた。アウトバス社からロゴバス社へのジグリの卸売価格は4800ドルだったが、ロゴバス社の小売価格は7500ドルだった。

 ベレゾフスキーが組んでいたのは、チェチェン人のマフィア組織だったと指摘されている(チェチェン人はロシアで大規模なマフィア組織を持っている)。モスクワ地域の自動車販売の利権をめぐり、1994年にモスクワの地元マフィア(Solntsevo)とチェチェンマフィアの間で抗争が起きたとき、ベレゾフスキーは爆弾で暗殺されかかっている。

 ベレゾフスキーは自動車ディーラーとしての名声を利用した詐欺商法まがいのこともやっている。1994年、彼はロシアの新型国産車を作るといってAVVA(全ロシア自動車同盟)という会社を設立して債券を発行し、ロシアの一般投資家から5000万ドルを集めたが、3年後にフィンランドの小さな自動車工場を買収しただけで、結局自動車製造に関する事業をほとんど行わなかった。(関連記事

 ベレゾフスキーは1995年に公共テレビのORTを傘下におさめたが、その経緯はORTの経営者が民営化にともなって広告業界との腐敗した関係を断ち切ろうとして大手広告代理店と抗争になった際、ORTの経営陣から仲裁を依頼されたことを利用して会社を乗っ取るというものだった。その挙句にORTの社長だったリスチエフが暗殺され、警察は当初ベレゾフスキーを重要参考人として疑ったが、事件はその後迷宮入りした。

 こうして奪取したORTの宣伝力を使い、ベレゾフスキーは1996年の大統領選挙でエリツィンを再選させ、2000年の大統領選挙ではプーチンを勝たせ、政府への影響力を保持し続けた。

▼革命前にもロシア経済を動かしていたユダヤ人

 グシンスキーやベレゾフスキーが成功した過程を見ると、かなり強引で犯罪的な面が目立つが、商売が非常にうまいのも確かである。一般的に「ユダヤ人は商売がうまい」と言われるので、短期間で大富豪になったロシア人の中にユダヤ人が多いのは不思議はないのかもしれないが、その理由はよく分からない。

 歴史を見ると、1917年の革命より前のロシア経済は、ユダヤ人の影響力が非常に大きかった。ロシアの銀行業の基礎を作ったのは、モスクワ、サンクトペテルブルグ、キエフ、オデッサなどに住み、中世から商業や金融業のネットワークを維持してきた裕福なユダヤ人商人たちだった。ロシアが近代化していく中で、弁護士、医者、建築家、新聞編集者、科学者、作家などにもユダヤ人が多くなった。(関連記事

(19世紀末、ロシア帝国には500万人のユダヤ人がいたが、その多くは貧しい人々で、裕福な商人はごく一部だった。ロシアにユダヤ人が多いのは、かつてロシア南部にハザール王国という国があり、9世紀にユダヤ教を国教として制定したことが一因だ。イスラエルではユダヤ人は「古代イスラエル王国の末裔」とされるが、ハザールの人々は古代イスラエルとは関係ないので、イスラエル建国運動に矛盾を与える。この矛盾を避けるため、従来の歴史認識では東欧ロシアのユダヤ人は地中海地域から移住してきたとされ、ハザールの存在はタブー視されていたが、最近では世界的に認識が変わりつつある)(関連記事その1その2

 ロシア革命前、ユダヤ人の中にはロシア革命に協力する者も多く、共産党には、レーニンやトロツキーをはじめとして多くのユダヤ人が含まれていた。ヨーロッパ諸国では民族主義が勃興し国民意識が強まっていたが、ユダヤ人は「フランス人」「ドイツ人」といった意識の前に「ユダヤ人」というアイデンティティを持っていたがゆえに、近代国家の枠組みにとって邪魔者とされ、差別されることが多かった。そのため多くのユダヤ知識人が民族主義を乗り越える道として世界革命が有効だと考え、ロシア革命に賛成し、協力した。だが革命後は、都市の中産階級だったユダヤ知識人の多くは裕福層として敵視され、没落させられた。

 革命後、ソ連政府はユダヤ人を都市住民から農民に転換させる政策を行い、ロシア南部やウクライナで土地を与えたが、それだけでは土地が足りなくなり、1928年に満州国(中国東北部)との国境地帯のアムール川北岸のビロビジャン地区にユダヤ人の入植地を作り、この地区を「ユダヤ人自治州」にして移住を強制的に促進した。(関連記事

 こうした経緯によって、ユダヤ人は農民や労働者としてソ連社会に組み込まれ、ロシアのユダヤ人の商業民族としての特性は失われたかに見えた。しかし、市場経済に戻った冷戦後のロシアでユダヤ人実業家が急速に勃興した経緯を見ると、ユダヤ人の特性は社会主義の80年間を生き抜いていたことがうかがえる。

 クレムリンの中枢に入り込んだオリガルヒは、一時は権力を磐石にしたかに見えた。だが、2000年の大統領選挙でプーチンを当選させた後、子飼いのはずのプーチンに反撃され、権力と財力を一気に失うことになった。まさに「飼い犬に手をかまれた」わけだが、そのあたりの経緯は、回を改めて書くことにする。



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