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アメリカに出し抜かれて暴動を起こしたイラクのシーア派

2004年4月6日   田中 宇

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 ここ数日イラクで続いているサドル派の反米暴動は、アメリカ占領軍政府(CPA)が、反米姿勢を改めないサドル派の新聞を閉鎖したことや、サドル派の幹部約20人を逮捕したことが原因だと報じられている。また、イラクの人口の6割以上を占めるシーア派の中でもサドル師は過激派の少数派で、システーニ師を中心とする多数派の穏健派とは対立関係にあり、サドル派の反米暴動はイラクの国民意識を代弁していないとされている。

 だが私から見ると、今回の反米暴動の背後には、3月初めにアメリカ側がシーア派を含むイラク人諸派と協議して作ったイラクの暫定憲法の制定過程において、シーア派がアメリカに出し抜かれてしまったことがあると思われる。

 CPAはイラク占領の失敗が明らかになった昨年11月、イラク人の暫定評議会との間で政権移譲のやり方と日程について取り決めを結んだ。これは、イラクの多数派であるシーア派に政権移譲のプロセスを認めさせ、新生イラクがイラク人の総意に基づいて再建されていることを世界に示すための枠組みだった。システーニ師を中心とするシーア派は、懐疑の目を持ちながらもその動きに参加した。だが、3月初旬まで続いた暫定憲法の制定作業は、結局のところ、シーア派が自分たちの権力を限定するのを了承するかたちになってしまった。シーア派はアメリカに「はめられた」観がある。

 システーニ師は3月下旬に「暫定憲法が施行されれば、イラクの分裂を招くだけだ」として、暫定憲法を無効にするよう求める姿勢を明らかにし、国連に対しても暫定憲法を承認しないよう求めた。サドル派の反米暴動はその1週間後に始まっていることから、これは「少数派」の反乱ではなく、シーアは全体がアメリカに対し、絶望感と嫌悪感を抱いた結果の動きであると感じられる。

▼クルド人を得させた暫定憲法

 イラクでは、6月末に政権がCPAからイラク人の側に委譲される計画になっている。その後、2004年末に選挙が行われて正式なイラク新政権が発足する予定で、それまでの間はイラク人による暫定政府が政権を運営するが、その暫定政府のあり方を規定するために暫定憲法が作られた。

 この憲法は「暫定」ではあるものの、その後の正式憲法は暫定憲法を発展させて作られることになっており、暫定憲法に盛り込まれた理念は、特段の理由がない限り、正式憲法にも踏襲される。そのため、昨年末から今年2月にかけて集中的に行われた暫定憲法をめぐる非公開の議論では、アメリカと、シーア派、スンニ派、クルド人などイラク人諸派の思惑が交錯した。(関連記事

 暫定憲法の中で、イラク新国家の権力構造を決定する最も重要なポイントは2つあった。ひとつは「連邦制」をめぐるもので、もうひとつは「大統領」をめぐるものだった。イラクはシーア派(人口の60%)、スンニ派(15%)、クルド人(20%)などの勢力でできており、暫定憲法は新生イラクを「連邦」であると規定した。だが、その連邦の実態をめぐり、中央集権的な傾向を強めようとするシーア派と、地方分権的な性格を強めようとするクルド人の主張が対立した。

 結局、議論には決着がつかず、暫定憲法では国家体制について確定的なことを定めずにあいまいさを残したまま、正式憲法の制定時に再び議論することになった。シーア派は、それまでには国政選挙を行えるだろうから多数決で中央集権的な国体を作ればよいと考えたようだが、その後、暫定憲法議論の最終段階で思わぬ落とし穴があった。

 暫定憲法の中に正式憲法を決定する補則条項として「国民投票で、イラクの18の州のうち3つ以上の州で、有権者の3分の2以上が反対した場合、全国全体の過半数が賛成していても、その法律は発効しない」とする条項が付け加えられたのだった。(関連記事

 この条項は「少数派の意見も重視する国家体制」を実現するという名目で付加されたが、実のところ「クルド人が賛成しない正式憲法は発効しない」ということを意味した。クルド人はドホーク、アルビル、スレイマニヤという北部3州に集中して住んでおり、この3つの州はクルド人口が3分の2以上を占めている。3州の人口は合計で約50万人だが、彼らが反対すれば、イラクの残りの2000万人以上が賛成しても、正式憲法は制定できなくなった。(関連記事

▼大統領は3人か5人か

 もうひとつの「大統領」をめぐる議論は、イラクに何人の大統領を置くかという話である。新生イラクは多民族国家ということで、各民族が大統領を出して「大統領評議会」を作り、その中の1人が国家元首となる、という制度が採られることになった。

 そして、大統領評議会の定員数について、クルド人やスンニ派が「3人」(シーア、クルド、スンニ各1人)を主張したのに対し、シーア派は「5人」(シーア3人、クルド、スンニ各1人)を主張した。クルド人とスンニ派は「各民族から1人ずつ」という考え方を主張したのに対し、シーア派は大統領評議会を「少人数の議会上院」として機能させる考え方に基づき、人口比に応じた選出を主張した。そして議論の末、3人制が採られることになった。(関連記事

 これらの2点はいずれもシーア派が、人口比では多数派であるにもかかわらず、新生イラクの国権をきちんと把握することができないという状態を生み出す結果となった。暫定憲法をめぐる議論は非公開で、どのような駆け引きの結果決まったのかほとんど分かっていない。

 だが、暫定憲法の最初の文案は、CPAのブレマー長官が作ったメモをそのまま使ったと指摘されており、議論を行った25人の暫定評議会のメンバーもCPAが任命した人々であることから、アメリカ側からの圧力や指導のもとで進められたと考えられる。「シーア派はクルド人の策略に負けた」と考えるより「アメリカは新生イラクにおいてシーア派の権力を削ぐ目的で、クルド人が有利になるように暫定憲法を持っていった」という可能性の方が高い。(関連記事

 3月6日、暫定憲法の調印式が開かれたが、直前になってシーア派の5人の代表が署名を拒否すると言い出した。これは、シーア派の精神的最高指導者であるシステーニ師が「署名するな」と命じたことを受けた動きだったが、暫定憲法が成立しない場合、クルド人がイラクからの独立傾向を強める結果になりかねないため、2日後の3月8日に署名がなされ、暫定憲法が発効した。クルド人地域では数万人の祝賀デモ行進が挙行され、自国内のクルド人の分離独立を恐れるトルコは、隣国の暫定憲法に懸念を表明した。(関連記事

 その後システーニ師は、暫定憲法に対する反対を表明し「できるだけ早く選挙をやり、その後改めて憲法を制定すべきだ」と主張するようになった(彼は以前から、早期の選挙だけが問題解決の方法だと言っていた)。(関連記事

 システニ自身はシーア派大衆に対してデモ行進をせよとは言わなかったが、強硬派であるサドル師の一派はアメリカ敵視を強め、システーニの支持者たちは暫定憲法に反対する署名活動を開始した。(関連記事

▼シーア派挑発のための新聞閉鎖

 アメリカ側は、シーア派が暫定憲法に対して反発するのは予測できたはずだ。6月30日の政権移譲の予定日まで3カ月しかないことを考えると、ここでシーア派の怒りを掻き立てるのはまずいため、シーア派に対する何らかの懐柔策を打って様子を見るのが得策だったはずだ。

 ところが米軍当局は、それとは正反対の挑発策を打った。3月29日、CPAはサドル派が運営する新聞「アルハウザ」(al-Hawzah)を発禁処分にする命令を下した。サドル派は占領軍による統治自体を認めていないため、アルハウザ紙は以前から反米色の強い新聞だったが、このところ特に反米色を強めたというわけではなかったため、CPAが同紙を閉鎖したのは、新聞の論調が問題だったのではなく、サドル派を挑発するためではないかとする見方を関係者の間にもたらした。(関連記事

 米軍当局は、以前からイラクの人々をわざと怒らせるようなことをやり続けている(以前の記事「イラクの治安を悪化させる特殊部隊」)。今回のサドル派に対する挑発も、その一環かもしれないが、政権移譲の6月末までにあまり日がないこの時点での挑発行動は、予定通りの政権移譲を難しくした。

 すでに米議会には「政権移譲の日を遅らせることが必要かもしれない」という声が出ている。しかし、政権移譲の時期を遅らせることは、ブッシュ大統領の人気を下落させ、再選を困難にする。このまま暴動が続くと、ホワイトハウスからCPAに対し「シーア派に譲歩して事態を沈静化させよ」という命令が下るかもしれない。(関連記事

▼強権は「チャラビ首相」に?

 暫定憲法で定められた新生イラクの大統領は、何か意思決定しても、2人の副大統領が拒否権を発動すると無効にされてしまうという、弱い立場のポストになる。その代わりに権力を持ちそうなのが「首相」である。首相は閣僚の任命権を持ち、日々の行政に関して最も強い力を持つ。

 すでにCPAは、新生イラクの首相職を強化するため、これまでCPA傘下でイラク人側の最高意思決定機関として機能してきた暫定評議会(IGC)を解散し、代わりに首相職を新設し、アメリカにとって好都合な人を任命した上で、6月末の政権移譲を迎えようという構想を検討している。(関連記事

 アメリカ側は、すでに初代首相として「意中の人」を決めているようだ。それはアハマド・チャラビ氏である。チャラビはシーア派だが、幼少時に家族とともにイラクから欧米に亡命し、湾岸戦争後、アメリカのネオコン・タカ派の肝いりで作られた亡命イラク人組織の代表となり、フセイン政権の悪行を誇張して米政府やマスコミにばらまき、イラク侵攻につなげる役目を果たした。(関連記事

 チャラビはイラク戦争後、暫定評議会のメンバーとなり、今ではシーア派勢力の一員として振舞っている。システーニが暫定憲法への署名を拒否するようシーア派に求めた際は、チャラビも署名を拒否した。だが、チャラビの経歴を見ると、イラクの安定と再建を望むシーア派ではなく、イスラエルのためにイラクを崩壊させたがったネオコンに近いと感じられる。チャラビが首相になったら、サダム・フセイン以上の強権政治を行うかもしれない。

 事態の悪化を防ぐには、システーニ師が求めてきた「早期の選挙」を実現するのがよい。そうすれば、チャラビのような民意に基づかない首相を就任させることも避けられる。アメリカは、イラクを混乱させる行為をやめ、イラクの民主化に協力すべきである。



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