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サウジ滞在記(2)服装にみる伝統パワー

2005年4月7日   田中 宇

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 サウジアラビアの人々の特徴として誰もが感じるのは、服装のユニークさである。それは、欧米の様式が標準であり常識であるという今の世界のあり方とは別の道、伝統を重視する独自の道を行っているサウジアラビアの社会のユニークさを象徴している。

 リヤドのサウジ人の格好について、第一に印象に残ることは、大人の服装が多様でなく、男性の格好と女性の格好がそれぞれ伝統的な1種類ずつであることだ。リヤド市民の半分ほどは外国人労働者であり、外国人はそれなりのふつうの洋服を着ている。

 つまり、サウジ人か外国人か、という見分けがひと目で分かるようになっている。リヤドのサウジ人は、外国人とは違う伝統的な格好にこだわることで、サウジ人としてのアイデンティティや「正統性」を示しているようにも見える。

 男性は「トーブ」と呼ばれる真っ白な、かかとまで隠れるワンピースのガウンを着て、頭には「グトラ」「クーフィヤ」「シマッグ」などと呼ばれる、赤白のチェックもしくは白色の布をかぶり、その布を頭に固定するために「イガール」と呼ばれる太い布の紐を頭に二重に巻いている。リヤドでは、大人のサウジ人男性のほぼ全員が、この格好をしている。(関連記事その1その2

 グトラが白の人と、赤白チェックの人がいる。暑いときは白をかぶり、そうでないときは赤白をかぶると聞いたが、男性の服装のバリエーションとしては、このグトラの2種類の色だけである。暑くなる直前の今の季節だと、赤白の人が7割、白色の人が3割といったところだ。20歳代ぐらいまでの若者の中には、伝統的な格好よりもジーンズなどの洋服を着て歩く人もいるが、それより上の大人のサウジ人男性はほぼ全員が、伝統的な格好である。

 白いトーブを着て白いグトラをかぶり、頭に黒いイガールを巻いた姿は、白くて頭に黒い毛が3本生えている「オバケのQ太郎」に似ているので、サウジ人男性の格好を「オバQ」と呼んでいる日本人に、中東全域でこれまでに何人も会った。金持ちのサウジ人男性たちは、周辺のドバイやカイロ、ベイルートなどに休暇で出かけ、金遣いや人使いも荒く、飲酒や売春など、母国ではできない放蕩を行う(という印象を周辺国の人々に持たれている)ので「オバQ」は「へんてこな金持ち」というイメージにつながっている。(関連記事

 しかし、リヤドに来てみると、サウジ人の男性の全員がオバQスタイルなので、異様な格好という感じではなく、むしろサウジ人のナショナリズムを示す民族衣装であると感じられる。

 サウジ人男性が民族衣装を着るのは、宗教的な理由からではない。イスラム教としては、男性はパンツをはいていれば問題ない。社会的な強制があるわけでもなさそうで、リヤドで親しくなったあるサウジ人男性は「ナショナリズムが強いから、みんな伝統的な格好をしているのだ」と言っていた。

▼男は白、女は黒

 男性の服が白を基調にしているのに対し、女性の服装は黒が基調である。男性が白いガウンを着ているのに対し、女性は「アバヤ」と呼ばれる黒いガウンを着ている。男性が頭に白いグトラをかぶるのに対し、女性は頭に黒い「ヒジャブ」(ヘジャブ)と呼ばれるスカーフを着用し、髪の毛を隠している。

 この格好は、サウジ人だけでなく、サウジに滞在する外国人女性にも義務づけられている。男性の服装が義務ではないのに対し、女性の服装は義務である。男性の服装はイスラム教ではなく伝統に基づいたものであるのに対し、女性の服装はコーラン(クルアーン)で女性が身体をおおい隠すことを求めているため、義務の意識が強くなっている。(関連記事

 さらにリヤドでは、多くのサウジ人女性が、ヒジャブによって髪の毛を隠すだけでなく、鼻と頬と口を「ニカブ」とか「ブルカ」と呼ばれる布で隠し、外から見えるのは目と手の先だけという格好をしている。

(サウジの女性服は、アバヤとヘジャブとブルカの3点セットだが、アフガニスタンなどでは、これらがワンピースになった服装が普通で、それがブルカと呼ばれている。ブルカは、アメリカがアフガニスタンのタリバン政権を批判する材料として非難したので有名になった)

 髪の毛を隠すのはイスラム教に基づく義務だが、顔を隠すことは、イスラム教に基づく義務なのか。それともイスラムの教えの範囲外のアラビアの伝統に基づくものなのか。この件に関しては、サウジ国内で以前から議論が繰り返されている。コーランに書いてある「女性は身体をおおい隠すべき」という語句は、身体のどこまでを隠すべきだという意味なのか、髪の毛までなのか、顔全体なのか、目も含まれるのか、といった解釈の論争である。

 私の妻が親しくなった若いサウジ人女性は「私は外出するとき、髪の毛はおおうが、顔はおおわない。髪の毛を隠すのはイスラムの教えなので積極的に守っているが、顔をおおうのはサウジアラビアの伝統的な習慣でしかないので、やる必要はない。町で宗教警察(ムタワ)を見かけたら、厄介な状況に置かれたくないのでヘジャブの端で顔を隠すけど、それは現実的な対応であって、私の信仰心とは関係ない」という趣旨の説明を、妻に対してしていたそうだ。

(女性の会合に男性が呼ばれることはないので、私は直接彼女に話を聞くことができない。私の妻は自分のサイトでサウジ女性についての記事などを書いているので、詳しくはそちらを見ていただきたい)

▼女性の運転禁止はイスラム的か?

 宗教界が禁止したり奨励したりすることが、イスラムの教えに基づくものなのか、イスラムの教えに基づいているように見えて実はそうではなく、アラビアの伝統にしか基づいていないものなのか、ということは、女性に自動車を許可するかどうかといったことなど、いくつもの事柄に関して議論になっている。

 サウジアラビアでは女性の自動車の運転が禁じられているが、預言者ムハンマドの妻は、自らラクダの隊列を率いて商品を運ぶビジネスウーマンだった。当時のラクダは今の自動車に当たると考えると、女性が自動車を運転することがイスラムの教えに反しているという考え方は間違っていると主張する人もサウジにおり、議論が続いている。

 サウジは公共交通の少ない自動車社会であるだけに、この議論は人々の生活に密着した重要な問題だが、妻が知り合った十数人のサウジ人女性の中には、くるまの運転なんかしたくない、そんなことは夫や運転手に任せた方が楽だと言う人が何人もいたという。サウジの多くの職場では、男性の遅刻の理由として「妻が買い物に行くので、自家用車で送迎しなければならなかった」というのが認められている。

▼ヘジャブの強要と禁止、どちらが人権侵害か?

 サウジアラビアでは、女性に対する独特の規制がいろいろある。アバヤとへジャブを義務づけている服装の規定や、女性には自動車の運転が許されていない(運転免許証が交付されない)ということはすでに書いた。

 このほかにも、女性には身分証明書や旅券が発給されず、夫や父親の身分証明書に付記される形式になっており、夫や父親などの親族が付き添わないと外出や旅行に行けないこと、この女性に行動の自由がないことから派生する、女性は外で仕事に就くことが難しいこと、家族法が男性優位になっていることなど、いくつも規制がある。

 これらを指摘して、欧米や日本では「サウジでは女性が差別されている」という主張がなされ、アメリカの「人権主義者」は「イスラム教そのものが女性を差別しているので、サウジなどイスラム諸国は、人権重視の民主社会を作るためには、欧米のように政教分離する必要がある」と主張している。特に過激なネオコンなどは「サウジ国民の民主化運動を支援し、王政を倒すことを扇動するのが良い」と言っている。

 しかし私がみるところ、これらの人権主義の主張は、おそらく根本的に間違っている。

 リヤドのサウジ人の多くは、男女問わず、非常にイスラム教の信仰心が強い。すでに紹介したように、顔をベールでおおうことは「イスラム教に基づいた決まりではない」として守らなくても良いと主張する人がいるが、髪の毛をベールでおおうことは、イスラム教に基づいた決まりであると広く認められたことなので、ほとんど誰も破りたいと思っていない。

「政教分離」にこだわるトルコやフランスなどで、学校の教室や役所の職場でのヒジャブ着用が禁止されたのに対し、イスラム教の女性たちが猛反対するという事件が起きているが、これも同じ現象である。敬虔なイスラム教徒の女性にとっては、公共の場でヘジャブを着用することが強い要求であり、政教分離の名のもとにそれを阻止することの方が抑圧であり、人権侵害だということになる。

▼宗教熱心な無神論者、政教分離を望まない政教分離主義

 サウジ人が伝統的ないしイスラム的な格好をしていることは、おおむね彼ら個人の自由意志に基づいており、抑圧の結果ではない。サウジアラビアにおける平均的な人々の信仰心は、他のアラブ諸国よりもかなり強い。これは、イスラム教の中心地であるメッカを国内に持っていることに由来する国民意識だと思われる。

 人々が議論をする際にも「イスラムの教えに反してもかまわない」という考え方に基づいて主張をしている人はおそらく誰もいない。あるサウジ人は「ここでは共産主義者でさえ無心論者ではなく、1日5回のお祈りを欠かさない敬虔なイスラム教徒だ」と説明していた。

 サウジアラビアでは最近地方議会選挙があり、そこでは主にイスラム主義者とリベラル派の間で選挙戦が展開されたと報じられたが、そこでの論争も、リベラル派が政教分離を求めているわけではなく、イスラムに基づいた政治システムを透明化・合理化することを求めている。

 欧米のリベラル主義は、個人が宗教的な拘束から逃れて自由になる政教分離を求めるところから始まっているが、サウジのリベラル派は、イスラムの枠内から出ていくことを求めていない。サウジのリベラル派は、報道や言論の自由を求めている点では、欧米のリベラル派と同じだが、政教分離という本質的なところでは、リベラルと呼ぶべきものではない。

 人々の議論の前提は「良いイスラム教徒としてどうすべきか」ということであり、たとえば「女性が自動車の運転をして良いか」どうかという議論は「女性は自動車を運転すべきではない」という考え方がイスラムにのっとったものであるか、そうではないかという部分で論争される。

 欧米タカ派の論調によくある「イスラムは遅れた宗教なのだから、そこから離脱することが中東の改善につながる」という考え方は、サウジ(と中東の多くの地域)では支持されない。宗教がからむ話の議論では、人々の理屈は「自分の方が本当のイスラム教に基づいた主張である」という線に沿って展開される。欧米の人権論者が求める方向とは逆である。

▼ベールの起源は農地分配を防ぐため?

 中東イスラム世界で女性が髪の毛や顔を隠すことが義務づけられているのはなぜかということについては、地中海の農耕文明の古い習慣に基づいているという見方がある。

 地中海周辺の農耕文明は、土地が子孫に細かく分配されていくことを防ぐため、親は娘を、地縁血縁のない男性とは結婚させないようにする伝統が古くからあり、その一環として、娘は親族以外の男性に顔を見せない(見せると男たちが娘と結婚したがるから)という風習ができ、それが地中海世界の周縁部にあるサウジアラビアでも、イスラム教の発生以前から行われていた。

 たしかに、サウジを含む中東では今も、地縁血縁のある人どうしの結婚が多い。地中海の東側にある中東だけでなく、西側にあるスペインやイタリア南部などでも、女性がベールをかぶる伝統が存在し、これもヘジャブと同根だと考えられている。

 ベールとヘジャブの文化は、古くは地中海全域にあったが、その後欧州では、宗教界の腐敗を嫌い、神と人との間に介在していた教会をすっとばして神と人間がつながろうとする宗教改革が行われた。それは、宗教界がおさえていた社会規範から個人を解放する動きとなり、ベールの着用義務は一部のカトリック教会の中だけに残り、社会一般には人々はベールを着用しなくなった。

▼地中海二大宗教の相克と近代化

 イスラム教では、もともと神と人とが直結しており、キリスト教で行われたような宗教改革は行われず、それとは全く逆に、イスラム世界で繰り返された「改革」は、イスラムが発生した最初の姿に戻ろうと努力する「宗教純化」の運動だった。

 欧州キリスト教世界は、宗教改革によって個人の自由な発想が増し、それは産業革命につながり、軍事技術を急速に発展させた欧州は、地中海文明のライバルだった中東を分割し、植民地支配するに至った。

 欧州列強は、支配下に置いた中東諸国に作った傀儡政権において政教分離を試み、欧州型の国民国家を作って市場として開拓しようとしたが、ほとんどうまくいかなった。ライバルのキリスト教世界に敗北し、支配される側となった中東の人々は、内省の結果、自分たちのイスラムやアラブの伝統思考を捨てて欧州化するのではなく、逆に従来よりも強く伝統にこだわる方に向かった。

 キリスト教とイスラム教はかなり近い宗教であり、中東のイスラム教徒からは、欧州の政教分離や近代化は、キリスト教信仰が形を変えたものに見える。欧州が中東に求めた近代化(欧州化)は、中東の人々には「キリスト教への改宗」と同じものに見えるため、中東の人々は、改宗を拒み、より自分たちの宗教や伝統にこだわるという反応をした。

 欧州列強のアジア進出に対し、日本人は伝統思考を短期間に捨て、明治維新を行って自らを「西欧化」した。これは中東の人々の反応とは対照的であるが、それは中東の人々の宗教が欧州の人々の宗教と同根であり、西欧化の宗教的な本質が強く感じられるのに対し、日本人(やその他の東アジア人)は、地中海の一神教とはほとんど関係ないので、西欧化を比較的少ない抵抗とともに受け入れられたという違いに基づくと思われる。



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